花の都は雨ばかりーフィレンツェ印象記
情報行動学科 荒木 詳二
2008年の10月末、さまざまな偶然が重なってフィレンツェへ行くことになった。国際交流委員として「いつでも、どこでも、誰とでも」と公言していた手前、断るわけにもいかない。今回は9月入学に関するフィエレンツェ大学側の希望調査が出張の目的であった。同行者は欧州へ行かれたことがない教育学部のU先生。私も、フィレンツェへは20年ばかり前の夏の盛りに友人と行ったきりで、ちょっぴり不安になって、「地球の歩き方」と「1か月速習イタリア語」を早速買ってきた。宴会用(?)に、昔よく聴いたチンクウェッティのカンツォーネのCDも毎日聴いて、「夢見る想い」を覚えることにした。
待ち時間も合わせると、日本を出てから24時間後、やっとフィレンツ空港について、タクシーで運転手さんと「夢見る想い」合唱したところまでは良かったが、その後が最悪。予約したホテルについたら部屋がないと意地悪そうな爺様にいわれ、仕方なく近くのアパートに連れていかれた。暗闇の中やっと鍵を開けて室内へ入ったが、結局熱いお湯は出ずに、出るのはうるさい蚊ばっかり。
翌日また交渉しても埒があかないので、教育学部からフィレンツェ大学に留学しているS君にホテルまで来てもらう。結局S君のお蔭で、ホテルに部屋が取れ、その後毎日彼のお世話になった。S君は美術史の専攻で、フリードリヒ2世の建築に表現された宇宙論が研究テーマとのことである。シューズの紐も右左別、流行の髪型に皮のミニバッグを下げたお洒落なS君は、この芸術の都にもすっかり慣れ、お蔭で私たちはフィレンツェで一番おいしいホットチョコレート、ジェラート(アイス)、パニーノ(サンドイッチ)を賞味できたのであった。卒業や就職よりも、ルネッサンスの本場でルネッサンスの研究に一生懸命に打ち込んでいる彼の姿に、学生の本来の姿を見た気がした。
フィレンツェ大学の日本語教師の鷺山先生には公私ともにお世話になった。ペッキオーリ文学部長(女性)との面談の際の通訳もしていただき、食事もつきあっていただいた。日本女性としても小柄な部類に属される先生はレストランで1リットルのキャンティ・ワインを2本開けてから、近くのバール(カフェ)で食後酒もぐいと飲まれる酒豪であった。イタリアでも日本同様大学改革とやらで、予算を減らされたり、大学へのEU基準の導入などで大学人はたいへんらしい。しかし鷺山先生は意気軒昂であられた。
フィレンツェは毎日雨だったが、U先生と空き時間を利用して、ルネサンスの絵画と彫刻を満喫した。ウフィツィ美術館、アカデミア美術館、サン・マルコ美術館、サンタ・マリア・ノヴェッレ教会、サン・ロレンツォ教会、ピッティ宮殿―花の街は実に雨に濡れた宝石箱でありました。
イギリス留学記
情報行動学科 河島 基弘
私がイギリスで留学生活を送ったのは、1997年6月から2005年6月までの8年間だった。最初の1年間を過ごしたのは、ロンドンから北東に電車で約1時間の距離にあるエセックス大学(社会学修士)で、次の1年間はロンドン大学・経済政治学院(LSE)(社会人類学修士)に在籍した。それからエセックス大学に戻って社会学の博士課程に進み、学位取得後は同大学でTeaching Assistant 兼Course Tutorという非常勤の仕事をした。
イギリスの大学では学生が取る授業数は日本に比べてずっと少なく、学部生で週に5、6コマ、大学院生で週に3、4コマ程度である。ただし、語学以外の授業では、60分の講義と60分のクラス(講義の補足説明や学生同士のディスカションなどが少人数で行われる)の組み合わせで1コマになるので、結構忙しい。しかも、大量の文献を事前に読んで授業に臨むことが前提となっており、必然的に勉強漬けの生活となる。私が学んだエセックス大学社会学部の修士課程では、こうした授業の予習と並行して、1年間で4000語のエッセイ(小論文)を6本、15000語の修士論文1本を提出することになっていた。
一方、博士課程に進めば基本的に何の義務もなく、自由に研究計画を立てることができる。私は鯨・捕鯨問題を博士論文のテーマに選んだわけだが、資料集めと関係者へのインタビューを兼ねて、イギリス国内、日本、アメリカ、カナダを飛び回った。担当教員が学生の自由を重んじる人だったこともあり、指導を受けるのはまとまった論文が書けた2カ月に1回くらいの割合で、あとはすべて自由時間だった。
エセックス、ロンドンの両大学とも数多くの日本人留学生がいたが、異国での慣れない生活と不自由な英語のためにノイローゼになったり、学位を取れずに帰国する学生に何人も会った。日本でほとんどストレスというものを感じたことのなかった私も、留学半年で8キロ痩せたり、急性胃炎にかかるなどして、最初のうちはかなり苦しめられた。
それでも何とか切り抜けることができたのは、親切な教員や友達に恵まれたからである。特に、愚痴を言い合ったり助け合ったりできる友達、中でも留学生仲間の存在が大きかった。私は30歳を過ぎて留学したが、イギリス人も含めて外国人は、年齢や国籍、性別を気にしない人が多い。先方がこちらに興味を持ってくれて、互いに気が合えば、すぐに友達である。
授業の合間にはよくクラスメイトとお茶を飲んだし、大学内外のパブ(イギリスの大学はキャンパス内に必ずパブがあって、安く酒が飲める)にも頻繁に出掛けた。また、友達のパーティーには数え切れないほど招待され、こちらも努めてパーティーのホストをした。イギリス、ベルギー、トルコなど友達の実家に招いてもらったのもいい思い出である。今でも何人かの友達とは電子メールでやり取りしている。私にとって、イギリスでの8年間は本当に夢のような日々だった。
ウズベキスタン・アゼルバイジャン訪問記
情報行動学科 井門 亮
2008年1月、「交流協定打ち合わせのために、ウズベキスタンのタシケント東洋大学と、アゼルバイジャンのバクー国立大学に出張してくれないか」との依頼(ほとんど業務命令?)が私のところに来た。「ウズベキスタン」や「アゼルバイジャン」と聞いて、どこにあるどんな国なのか、正確に答えられる人がどれだけいるだろうか?私も、両国については、旧ソ連の国で、「タシケント」と言えばシルクロード、「バクー」と言えば油田といった、高校生レベルの知識しかなかった。「そんなところに行くのかよ…」と若干ビビりながらも、ビザ申請をしたり、念のため海外旅行保険に入ったり、とりあえず腹痛の薬も買ったりと出張準備をし、ついに出発の朝を迎えた。
同行のN先生(ロシア語が堪能で、出張中ずいぶん助けて頂いた)とともに、成田からモスクワ経由でウズベキスタンのタシケントに到着し、ヘトヘトになりながらホテルにチェックインしたのが早朝5時頃。それにもかかわらず、昼からはタシケント東洋大学で交渉を行なわなくてはならないという殺人的なスケジュールであった。
タシケント訪問でまず驚かされたのは、日本への関心の高さである。タシケント東洋大学では150人もの学生が日本語を学び、また、一般市民対象の日本語講座を開講している日本人材開発センターでも、小学生から社会人まで幅広い層が勉強しているというのだ。タシケントでは、ビールを買うのにも苦労するほど英語が通じなかったが、以前群馬大学に国費留学していた学生さん(今度は日本の大学院に留学予定とのこと)が、ウズベク語の通訳を買って出てくれたおかげで、打ち合わせはスムーズに進んだ。
夜にはその学生さんの御自宅に招待して頂き、プロフ(ウズベキスタン風ピラフ)とウォッカで歓待を受けた。ウォッカは一気飲みするのが礼儀だと言われたので、それに従って何杯も飲んでいるうちに、一晩でボトルが2本も空いてしまった。日程の都合上、ウズベキスタンには2日足らずしか滞在できなかったのが心残りである。
次に訪れたのはアゼルバイジャンのバクー。バクーとはペルシャ語で「風の街」という意味らしいが、その名の通り、我々の訪れた時も風が強かった(この点は前橋と同じである)。バクーは、カスピ海という「海」に面し、街中は建設ラッシュで活気に満ち溢れていた(これらの点では前橋と大きく違う…)。
バクーでは、バクー国立大学の日本語専攻の学生さん達と交流することができ、カスピ海に面した世界遺産の乙女の望楼や、拝火教寺院などを案内してもらった。最終日には簡単な授業も行ったのだが、授業の終わりにはたくさんの質問が(もちろん日本語で)寄せられた。彼らはみな明るく、驚くほど日本語も上手で、目を輝かせて「日本に留学したい」と言っていたのが印象に残っている
英語と日本語、それにアゼルバイジャン語とロシア語が飛び交う中で行われた協議では、まだ日本の大学と交流がないためか、群馬大学との協定に強い関心が示され、我々が説明のため提示した協定書のサンプルにでも今すぐサインしようかという勢いであった(めでたく2009年1月末、正式に協定が締結された)。
私はこれまで社会情報学部の国際交流にかかわってきたが、主に担当してきたのは、学生を留学先に送り出す「派遣」業務であった。しかし、今回のウズベキスタンとアゼルバイジャンの訪問を通して、今更ながら「留学生受入れ」の大切さを認識させられた。また、私達日本人のよく知らない国にも日本語を学んでいる人が大勢いることや、彼らの日本語運用力の高さに驚かされ、そこで日本人教師が孤軍奮闘しながら日本語を教えているということに感動させられた旅でもあった。今回訪問した両大学の学生さんには、ぜひ群馬大学に来てもらいたいと思う。
本学部は、非英語圏(言い方によってはマイナーな国)の大学とも協定を結んでいる。「派遣」の立場からすれば、「大学時代に、滅多に行けないような国に行ってやろう!」という気概のある若者の出現を待ちたいところである。
ケンブリッジ滞在記
(旧)経済・経営情報講座 八木 尚志
昨年9月から3月までの予定でケンブリッジ大学に滞在している。ロンドンと違って、ケンブリッジは、静かで落ち着いている。その多くをカレッジの古い建物と、芝生の中庭や前庭が占めている。この学問の都の真ん中には、ケム川がゆったり流れていて、ただ歩き回っているだけでも楽しい。
学生も教師も帰属意識はカレッジにあるようで、「どこのカレッジか」ということは挨拶の始まりのようによく聞かれた。ケンブリッジ大学は32あるカレッジや数多くの学部の総称だからだ。幸い、カレッジはWolfson、学部は政治経済学部のVisiting Scholarとして、生活はWolfson、研究は学部という経験をすることができた。居住は、Wolfsonの敷地内にあって中庭の芝生に面した快適な部屋を与えていただいた。たまに中庭の芝生をリスが走っていたりする。
ケンブリッジに滞在して1ヶ月の10月5日は、Wolfsonのフォーマル・ディナーにも出てみた。黒のガウンを着て出る上に、どうしたらよいのか何を話せばいいのか様子もわからず、直前にはずいぶん気にもなった。しかし、本当に楽しい経験で、10時半までその場を離れることができなかった。
講義は、10月の第2週に始まり8週間。この時期は午前中講義に出席し、午後自分の勉強をすることにした。おかげでずいぶん修士の学生とは親しくなった。修士在籍は約40人。その多くがイギリス以外の海外からの学生である。学部の講義にも出てみたが、教師にも学生にも緊張感があって心地よい。
滞在中なんといっても、2000年のカウントダウンと新年のケンブリッジを体験できたことは、最高の喜びのひとつだ。夕方からコンサートなどの催しが始まり、カウントダウンには4万人以上が参加した。子どもも年輩も含めて踊って過ごしほとんど問題はなかったから、ケンブリッジの人々の健全さには驚く。
充実して過ごすことのできた滞在中、英文論文を2つ完成し、すでにひとつはPasinetti教授からコメントをいただき、もうひとつはHarcourt博士に読んでいただいている。3月1日には、Harcourt博士に、Hahn教授、Brown教授をはじめ学部の多くの方々を紹介していただいた。そのほか、Mirrlees教授、Blaug教授などをはじめケンブリッジに来るまでは、願ったこともなかった先生方に質問に答えていただいたりお話を伺う機会を得て、私にとっては新しい発見と経験の連続のすばらしい滞在であった。(2000年3月2日)
スロヴェニア見てある記
(旧)社会・情報行動講座 荒木 詳二
思いがけず学部長夫妻のお供をしてスロヴェニアに行くことになった。しかしスロヴェニアへ行ってきますといったら、大半の人に怪訝な顔をされた。1991年に独立したばかりの小さな国は日本ではあまり知られていないらしい。旧ユーゴ連邦の最北部に位置するスロヴェニアは、人口は二百万、面積はスイスの約半分の可愛らしい国である。日本に赴任した大使も始めのうちは、スロヴェニアとスロヴァキアは違った国であることを事あるごとに強調しなければならなかったそうである。
このスロヴェニアは昔ハプスブルク帝国に属していたと聞きかじっていたので、自分の拙いドイツ語でもなんとかやっていけるだろうと高をくくり、愛用のドイツのジュラルミン製旅行鞄を転がして、わたしが勇躍機上の客になったのは十一月半ばのことであった。乗り継ぎのシャルル・ド・ゴール空港で散々迷って二時間後やっとリュブリアナ空港に着いたら、わたしの鞄だけ出てこなかった。なぜだ。紛失物係の若者にドイツ語で必死に掛け合う。調査して連絡先に連絡してくれるという返事を貰って引き下がるしかない。
空港にはわが群馬大学社会情報学部の提携校リュブリアナ大学文学部日本学科の学科長で日本語が堪能なB先生が迎えに来てくれていたのでほっとした。早速、鞄の件を話すと、冗談好きなB先生に「鞄盗られた鞄持ち」というありがたい称号をもらった。月明下の対向車もいない高速道路のドライブは素晴らしかったが、着の身着のままの一週間や、資料なしの講演(資料の大半は旅行鞄の中)のことを考えると、気が重くてならなかった。
翌日は快晴。日本学科の美人講師にリュブリアナの街を案内してもらう。両岸に柳の揺れるリュブリニッツァ川、小高い山の上にはリュブリアナ城、石畳の旧市街、建築家ヨージェ・プレチェニックの三本橋、見て歩くうちに気持ちも晴れてきた。そして同時にこの景色はどこかで見たような気がしてきた。ここはハプスブルク帝国の街だったのだ。ものの本には、この都市はヴィーンやブダペストより古く、小ザルツブルクとも呼ばれるとある。すでに中世の書物でもドイツ名ライバッハという名で登場しているそうである。歩き疲れて、四人でオープンカフェーでお茶を飲んだら、日本の一人分より安かった。大学に帰ってわが学部の留学生Nさんに会う。自転車を盗まれたが、元気にやっているとのこと、安心した。旧ハプスブルク帝国国道一号線脇の屋外レストランでステーキとワインの昼食後、学部長夫妻と城に上る。赤い屋根の家々、教会の塔、遠い山々、素晴らしい眺めに時を忘れた。城のチケットの購入はドイツ語でOK。
その翌日も快晴。気分爽快。朝B先生から鞄が見つかったとの知らせを貰ったのだ。朝から訪ねた広大なティボリ公園は秋たけなわ。黄色や紅色の木々が日を浴びて輝いている。小学生の一団と出会う。口々に日本語で「コンニチワ」と挨拶してきたのでびっくりする。我々のくる前の週は日本週間だったそうで、小学生達も極東の国に関心をもったのかもしれない。お昼はB先生の案内で、三本橋脇の魚市場隣接のレストランで川を見ながら、魚のフライを腹一杯(日本の感覚で三人分)食べた。河辺の紅い蔦が風に揺れる。夜はB先生に教えて貰ったティボリ公園内のお城で開かれた無料のコンサート。バイオリンとギターの二重奏。パガニーニの甘美な曲が甘いリュブリアナの夜に響いた。
三日目は公式訪問の日。届いたばっかりの三つ揃いで元経済大臣のリュブリアナ大学学長を表敬訪問。シャンデリア付きの広い学長室で小一時間話をした。昼は文学部招待の昼食会。文学部長の代わりにドイツ学科長でもある女性副学部長がこられた。ただとても忙しそうで挨拶以外はドイツ語のやり取りができなかった。昼食はゼクトで乾杯の後、前菜がポルチーニのオリーブ焼き、メインが鹿のフィレ肉苺ソース和え。帰りにレコード店でスロヴェニア出身のバロック作曲家タルティーニのCDを買う。在独のヴァイオリニストのわたしの姪の師匠で当地の音楽院出身のオジム氏も演奏者の一人である。ここもドイツ語でOK。
四日目は、学部長の奥様に頼まれて、スロヴェニアのお土産に最適だという巻き菓子ポティチャ探し。ポティチャはクリスマスや祝い事に主婦が作る素朴なお菓子。ところが売っていると教えられた場所で、散々ドイツ語で交渉したのだが探し出せずにギブアップ。午後は、リュブリアナ大学文学部長に挨拶したあと、B先生の車でラコウ・シュコチアンという、カルストの洞窟が崩れた谷を探検。湿地の彼方に広がる色づいた森は夢のように美しかった。夜はわが学部長N先生の講演「日本の災害」。その後イタリアレストランで日本語学科と懇親会。
五日目。今度は私が日本語学科の学生のために「前橋文学散歩」という題で、朔太郎や暮鳥を紹介した。昨夜と違って学生は少人数であったが、わかってくれただろうか。挨拶を簡単なスロヴェニア語で始めてみたら、学生達が驚いた顔をした。講演後また幻の菓子ポティチャ探し。今度は昨日の隣のテイクアウトの店のガラス越しにポティチャ発見。覚えたてのスロヴェニア語でついに宿敵を入手した。すぐ食べてみたら、素朴な味のするほんのり甘いお菓子だった。午後はイドリア地方の世界第三位の水銀鉱山跡の鉱山博物館を訪ねた。坑道を散々降りていって最深部へ来たとき突如電気が消えた。一緒にいた中学生達が悲鳴を上げた。しかしこれはお茶目なスロヴェニア風演出。その後B先生ご推奨のイドリア風ギョウザを賞味した。ギョウザの中身はジャガイモとサラミ。ソースがおいしい。とれたてのワインも飲む。帰りの車中で、町でよく耳にするヤーとか語尾のネとかいうドイツ語のような音はどんな意味か、B先生に聞いてみた。ここでは俗語でよくドイツ語使われるという答えが返ってきた。夜はリュブリアナ歌劇場でオペラ鑑賞。題目はJ・シュトラウスの「ジプシー男爵」。ドイツ語で受付嬢と交渉したら、前から五番目の席で2千円という値段。踊りや声はすごい迫力だったが、なんと聞こえてきたのはスロヴェニア語だった。
六日目は土曜日。朝の食堂ではドイツ語が飛び交う。朝から世界最大の鍾乳洞シュコチアン・ヤーメを探検。全長2.5キロの洞窟の中では、ものすごい水音が身を包む。地獄もかくやと思わせる圧倒的な迫力だ。切り立った岩を這うように小道が続いている。つり橋から下を見ると眩暈がしてくる。また地獄巡りの後はアドリア海の町ピランを訪ねる。聖ゲオルク教会から眺めるアドリア海が素晴らしい。ヨットが涼しそうに海面を滑っていく。「地中から地中海にやって来ました。」とB先生。遅い昼食は浜辺のイタリアレストラン。リュゾットにスパゲッティー。サラダは油菜の一種。ワインに炭酸を入れて飲む。タルティーニはこの町の誇りだ。大きな太陽が沈んでいく風景を見ながら、次はこれまたB先生推薦のゴロ・ボルト村の民宿へ急ぐ。夕食はボリュームたっぷりの茸と栗のスープから始まった。サラダ二種にニョッキにジャガイモ入りオムレツと、次から次に大皿が並ぶ。地元産のワインもどんどん出る。大食のわたしも胸やけがしてくる。外は満天の星。
七日目は熱いシャワーを浴びて目を覚ます。高地の朝は寒いぐらいだ。朝食は自家製のパンにチーズに生ハム。生ジュースがおいしい。朝食後はワイン醸造所を訪ね、試飲後お土産のワインを買う。スロヴェニアはワインのおいしい国でもある。ただしもったいなくてほとんど輸出はしないそうである。しかし次に訪問したコバリッドの戦争博物館で夥しい戦死者の写真、実物の武器、各種パネル(ドイツ語ももちろんある)を見て、一杯気分は吹き飛ぶ。ここは第一次大戦の大激戦地だったのだ。その後車で山頂に登る。石灰岩の白い山や秋の山岳風景は、一度目にしたら忘れられない。昼食はスパゲッティー・ペペロンチーノ。コーヒーはカプチーノ。ここはイタリアに近い。空港で世話になったB先生、同行のT先生と再会を約して別れを告げた。
君知るやアルプス山麓の国、人情厚く、風光明媚、安全で、物価も安い、グルメの国、ドイツ語も通じる中欧のすてきな国、スロヴェニアを!いざ行かん!(2001年1月)
スロヴァキア見て歩き
(旧)社会・情報行動講座 荒木 詳二
町の様子といい、人々の表情といい、なぜかバルカンを思わせたハンガリーを離れて、列車は悠々と流れるドナウ河を北上していく。途中のパスコントロールで、東京・広尾のスロヴァキア大使館に二度通ってやっと手に入れたビザを係官に見せる。ブダペストではホテル探しに苦労したが、今日からはスロヴァキア人のルドが、今回の旅行を共にするドイツ遊学中の友人と小生のために、五日間の スロヴァキア旅行の世話役をやってくれることになっている。ルドは夏期講習で知りあった、我々と同年代のプレチョフ大学の独文学講師。口から先に生まれてきたと思えるほど早口でよくしゃべる、エネルギッシュで、親切な独身男だ。
ブラチスラバ中央駅の改札口へ回ると、ルドが手を振っている。駅の食堂で、茸とハム入りのスパゲッティーとビールの昼食。濃い色のビールがうまい。食事中、名ソプラノのグルベローバは当地の出身ではなかったかと聞くと、ウィーンへ逃げた彼女の名をスロヴァキアで出すのはタブーだという。冷戦の名残りを感じずにはいられない。市街電車で今日の宿舎に荷物を置きに行く。宿舎は大学の学生寮と一体の珍しいホテル。学期中ではないので朝食なしだが、料金も格安だった。一休みしてから、町の中心部へ繰り出す。米大使館前には、テロの犠牲者を悼んで花と赤いロウソクが供えられている。フラヴネー広場、ミヒャエル門、さらにかつてハンガリー王達の戴冠が行われたマルティン大聖堂を見てまわり、 最後に町のシンボルであるブラチスラバ城へ登る。小雨交じりだが、城からドナウ河を見下ろす風景はすばらしい。城の近くにこじんまりした国会議事堂もあるが、毒舌家のルドによれば、この国で最も軽蔑されている職業が国会議員とか。 皆大衆迎合主義で、給料も安いが、仕事しないから当然だそうだ。降りる途中ハンガリーの団体客と出会う。ハンガリー人はこの城を自分たちのものと今でも思っているから、腹が立つとルド。小国スロヴァキアは歴史に翻弄されてきたせいもあり、誇り高いスロヴァキア人ルドは、ハンガリーにもチェコにもあまりいい感情を持っていないようだ。夜は国立オペラ劇場で七時の開演「ナブッコ」を観るため、夕食は急いでツナサンドにコーヒー。切符は最後の二枚が手に入り、やっと間に合って、平土間の六番目の席に座ったら、もう序曲が始まった。しかし思いがけず囚人の合唱を始め、歌手達の高水準の歌も堪能できて感激した。気がつくと回りはドイツ語ばかり。後で聞いたら、オペラ料金の安いブラチスラバへ ウィーンからバスをしたてて、オーストリア人が大挙押しかけてくるのだそうだ。 オペラの後は劇場近くのワイン酒場で実においしい修道院で作られた赤ワインを飲む。驚いたことに我々がいる間二度も小競り合いがあり、グラスが割れたりもした。ルドは酔っ払いこそスロヴァキア一番の名物といっている。
翌朝八時半に、ルドが慌ただしく我々の部屋へ駆け込んできて、袋の中から何か出している。出てきたのはナイフ、フォーク、黒パンに、チーズに缶詰め、最後に桃味のアイスティー。ルドはこの袋を持って、ヨーロッパ中を旅して回っている。十分間で素早く朝食を済ませ、バスで駅へ向かう。コインロッカーに荷物をしまったのはいいが、十時半発の観光船に間に合うバスも電車もない。タクシーを飛ばしてやっと間に合う。デーヴィン遺跡まで行く観光船から見るブラチスラバ城の景色もすばらしい。デーヴィンはスロヴァキアの聖地とか、スロヴァキア民族主義者達が好んで登った山だそうだ。この遺跡には今では門の一部しか残っていないが、博物館でこの遺跡の歴史が辿れる。頂上からドナウ河を眺めているとドナウ河の川音が聞こえてきた。遅い昼食は山裾のレストラン。レモンをかけて食べるドナウ河の川魚のフライも、白ワインもとても美味である。駅のコインロッカーの故障でまた慌てたが、無事インターシティでポプラットへ向かい、そこで乗り換え、最終バスで、避暑地タトランスカ・ロムニツァへ向かう。民宿の女主人の手作りのケーキとハーブティーが我々の遅い夕食だった。
第三日目は朝から雨模様。朝食後、この日の為に持ってきた運動靴とジャンパーといった格好でハイキング開始。ロープウェイでタトラ国立公園のゲルラホウスキー峰へ登る。ロープウェイを降ると、下界には雲海が広がっていた。透明な 山の湖を回った後、山を下り始めたら、いよいよ雨が強くなり始めた。石だらけの道は滑って歩きにくい。道々ルドのとの話はニューヨークのテロ。テロは悪いが、貧富の差を広げるアメリカ型資本主義にも反対だというのがルドの意見だ。途中の滝が小さいながら迫力満点だった。しかし一、二時間のハイキングのつもりが、四、五時間かかり、だんだんと我々も口数が少なくなっていった。三時頃の遅い昼食は、ニンニクスープにスロヴァアキア名物ハルシキ。ハルシキはゆでたじゃがいもと小麦粉の練り合わせに、生クリームとベーコンと羊のチーズをかけたものだ。ホカホカでおいしい。昨日の民宿で着替えてから、電車とバスを乗り次いで、ルドの町プレショフへ行く。夕食はパプリカ、ベーコンに卵を炒めたルドの手料理に黒パン。夜は黒ビールやブランデーを飲みながら歓談。その後同行のS氏は十二時からのNHKの海外向け放送に釘づけ。
四日目。朝食はハムにチーズに黒パンにハーブティー。小さなトマトとほんのり甘い薄緑色のピーマンがおいしい。出発まで、親日家のルドのレコード・コレクションを聞く。坂本九に伊東ゆかりにピンキー。午前中はスロヴァキア第三の都市プレショフ遊覧。壮麗なステンドグラスとドイツ人が作ったという精巧な聖壇のある聖ミクラーシュ教会、さらに旧新教学院。聖フランチェスカ教会では栗を拾った。次に行ったルドの勤めるプレショフ大学。この大学は哲学部、人文学部、神学部からなる学生二千人の大学である。独文科は毎年五十人前後の学生が入ってくるそうである。主任教授のセザク教授に紹介された後、ゼミ室や研究室を見学。ルドの話によれば、ドイツ語は中欧では共通語となっているが、スロヴァキアでドイツ語が一応話せる人はレベルにもよるが、全人口の三分の一くらいではないかとのこと。昼食はコンソメスープに蟹のスパゲッティーにビール。午後はバスで世界遺産のバルデヨフへ向かう。バスの中でカルパチア・ドイツ人の話を聞く。この人たちは十三世紀にスロヴァキア北部カルパチアへやって来たドイツ人の子孫で十年前の統計で約五千五百人くらいだとか。バルデヨフはドイツ人が建てたエギディウス教会や古い市庁舎さらに美しい町並みで名高い。カフェーでハンガリーのお菓子クレーメスを食べ、コーヒーを飲んで一休み。次にバルデヨフの保養地地区訪問。ハプスブルクの王女シシーも訪れたいわゆる飲む温泉である。シシーの愛したクリーム入りの繊細なお菓子オブラッテンも食べてみた。花々と木々それに豪華ホテルに囲まれたまるで公園のような避暑地にも、確実に秋が始まっていた。いつか日も暮れてきた。バスに遅れそうになり、走ってバスに乗った。プレショフに帰って、バゲテリアというバケットに好きなサラダやハムを挟んで食べる店で遅い夕食。パンもハムもおいしい。それから日本茶を出す喫茶店で、大きな急須入りの番茶を飲む。玄米茶や煎茶や桜風味のチェリー茶などもある。帰り道ルドの母上の家に寄る。挨拶はドイツ語。ソーセージにウォッカをご馳走になる。犬嫌いの小生は、大きなシェパードに見つめられて、食事どころではなかったが。
第五日目の朝食はルドスペシャル。削ったチーズと生クリームにベーコンとタマネギのみじん切りを加えて黒パンと一緒に焼いた料理。おいしかったが、食べ過ぎた。今日の音楽はスロヴァキア民謡。遅いバラードと早い舞曲しかないのがスロヴァキア民謡の特徴だ。ルドも胸を張って歌う。タクシーとバスを乗り継いで最後の訪問地コシチェへ向かう。スロヴァキア第二の都市コシチェはもとハンガリー人の町。素晴らしい天気のせいか、ネオゴシックの町並は輝くような美しさであった。町の象徴聖アルジェベディ教会のステンドグラスも印象的だ。教会前の噴水も楽しい。残念だがプラハ行きの飛行機の時間も迫っているのでゆっくりする時間がない。早いお昼はファーストフードでサラダとライスの変則的な食事。バゲテリアで夕食のためのハム、サラダ入りのバケットも調達した。その後タクシーでコシチェ空港へ向かう。空港でルドと文通と再会の約束をして別れた。少しだけハードで、たっぷりハートフルなスロヴァキアの旅がこうして終わった。