留学体験記

イタリア留学体験記

フィレンツェ大学(平成26年度交換留生) 保坂 真名(群馬県立中央中等教育学校卒業)

フィレンツェのシンボル、ドーモと

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 私は、イタリアのフィレンツェ大学に一年間留学しました。フィレンツェは街全体が世界遺産に登録されており、有名な建築物や美術作品が数多くあります。劇場が至る所にあり、オペラやバレエの公演が毎日行われており、芸術づけの一年間を送りました。

 午前中は大学附属の語学学校でイタリア語を勉強し、午後は大学で文学や美術についての授業を受けました。留学前に一年間、大学での授業を通してイタリア語の基礎を身に付けていたため、 語学学校では最初から中級のクラスに入ることが出来ました。留学中は、主に語学学校の授業の復習を毎日2時間程度していましたが、ホームステイだったので、時間があれば積極的に家族と話したり、食事はなるべく家族ととったりと、学校以外でもイタリア語でコミュニケーションをするように心がけました。日本にいるうちに文法をある程度固めておけば、イタリアではコミュニケーション力をつけるための実践に集中できるので、留学前にしっかり語学の準備をすることをお勧めします。

 語学学校には、世界中から年齢や人種、文化、習慣の異なる学生が集まっています。語学学校は休日や放課後のアクティビティが充実しているので、友人も作りやすいです。休日は友人とフィレンツェ近郊の街へ旅行に出かけたり、美術館に行ったりして、とても仲良くなりました。

フィレンツェ大学の日本語学科の仲間たちと

firenze_friends 逆にフィレンツェ大学には、日本の大学のように国際交流サークルやチューター制度があるわけではないので、友人を作るのにとても苦労しました。最初は、日本語の授業に参加して、日本に興味があるイタリア人と仲良くなりました。そのうちに、彼らの友人も食事や遊びに加わり、その友人とも仲良くなり…と言った感じで、だんだん友達の和が日本語学習者を中心に大きくなっていった印象があります。半年経つ頃には、困難なく会話が出来るようになったので、Aegee europeという学生団体に参加したり、イベントでボランティア活動をしたりと積極的に活動し、徐々に学校以外での友人や知人も増えていきました。

 フィレンツェ大学は、日本の大学と違って学校の敷地内に施設が集中せず、授業を受ける建物が町に点在しています。同じ形の家やお店が並ぶ町の中に、小さな看板が出ているだけの大学も珍しくないので、注意しないと通り過ぎてしまうこともしばしばありました。文学部系の主なキャンパスは、Via Santa Reparata 93、Via Santa Reparata 27、Via Gino Capponi 9です。日本の大学より学部の独立性が高く、授業をするための建物、という感じで、事務と教室、場所によっては簡単な広場のようなものがあるだけです。また、街にとけ込んでいるので、注意しないと通り過ぎてしまうこともしばしばあります。授業は基本的に公開ですので、誰でも聴くことができます。

 単位は、CFUという単位で数えます。語学の授業は基本的に週に3回授業があり、通年で12単位です。半期の授業は6単位。学部生の取得単位の上限は一年間で60単位です。

 どの授業も、全てイタリア語で行われ、1つの科目の授業が大体週に3回があるので、他の授業と被ってしまうこともあり、時間割を組むことは大変でした。1コマ2時間で、9:00〜13:00、11:00〜13:00、13:00〜15:00、15:00〜17:00、17:00〜19:00となっています。このように、お昼休みなどの休憩の時間がありません。同じ授業でも曜日によって授業をするキャンパスが異なることがしばしばあるので、皆暗黙の了解という感じで、授業が終わる少し前に教室を出て、次の授業には少し遅れる、といった具合でした。

 また、日本の大学では当然のように行われている、学部や学年ごとのガイダンスなどはなく、大学からは時間割すら配られません。時間割は、大学の近くにあるコピー屋(コピテリア)に買いに行かなければならず、重要な連絡は各キャンパスの掲示板に張り紙が貼られているので、自分で確認しなくてはなりません。早く友達を作って、情報交換をすることが重要です!

 試験は、前期は1月、後期は6月にあります。試験はほとんど口頭試問なので、留学生が単位を取るのはとても大変だと言われていました。しかし、毎回きちんと授業に出て、予習復習をしっかりすれば、半年経つ頃には授業の内容が理解できるようになりました。結果、フィレンツェ大学では、ロシア文学を始め、36CUF取得することが出来ました。

 最後に、留学してよかったと思うことを4つ挙げます。1つ目はイタリア語がしゃべれるようになったことです。留学をしなかったら、今のレベルになるまでにおそらくあと3、4年はかかっていたのではないかと思います。最初は相手が言っていることが理解できずに苦しい思いをしましたが、半年経った頃から分かるようになってきました。また、語学の上達とともに、仲良くなるイタリア人の層もより幅広いものになっていくと実感しました。ですので、長期留学は、半年ではなく、一年をお勧めします。

 2つ目は世界中に仲の良い友人が出来たことです。語学学校や、大学で知り合った仲間とは、今も連絡を取り続けています。留学をして、一緒に苦しい時間や楽しい時間を過ごした仲間は本当に財産だと思っています。

 3つ目は、ヨーロッパの生活の現実を知ることができた点です。最初は、憧ればかり先行していたヨーロッパですが、実際に生活すると、日本と違い不便で旧式な制度も多いことに気づきました。日曜日はお店がどこも閉まってしまいますし、公共交通機関は遅れる上にスリが多発します。私も、イタリアに行って早々、お財布を盗まれ、とてもショックを受けました。一般にヨーロッパは、美しい中世の町というイメージが強く、旅行で短期間訪れるだけでは、生活の不便さはあまり実感できないと思います。このように、実際に住まないと分からないヨーロッパの現実を知れたことは、とても有意義だったと感じています。また、このような不便な点があっても、魅了されてしまうのがイタリアです。留学を通して、イタリアがさらに好きになりました。フィレンツェのシンボル ドーモ

 最後は、交換留学生という立場上、日本にいた時よりも時間があり、これまでのこと、自分のこと、これからのことについて考えることができた点です。私は、イタリアに留学する前は、サークルに部活にバイトにと、とても忙しい生活を送っていました。その中で、自分について考える時間はあまりなかったように感じます。留学中は、様々なバックグラウンドをもつ、国籍多様な仲間と多く語り合う中で、今まで何を考えて何をしてきたのか、これから何をしたいのか、などについて、少し整理することができたと思っています。

 大学では、世界中の学生が夢や目標に向かって学んでいます。日本とは全く違う環境に身を置くことは大変なことです。でも、多くのことを学び、友人から沢山の影響を受ける生活はとても刺激的です。海外で学ぶことで視野が広がり、様々な視点から物事を考えることが出来るようになったと思います。

 

Gordersi la vita(人生を楽しむ術)

フィレンツェ大学(平成19年度交換留生) 阿部 美里

フィレンツェ大学(平成19年度交換留生) 阿部 美里
フィレンツェにて

私は、大学3年次から4年次にかけての一年間、イタリアのフィレンツェ大学に交換留学生として過ごし、人間的に大きく成長することができました。

当初は、慣れないイタリア人との共同生活や、英語が通じない日常生活、またアジアとはまったく異なるヨーロッパでの生活様式に戸惑うことも多くありました。 平日は、午前中に語学学校へ通ってイタリア語を学び、午後は大学で、主にイタリアではどのように日本語が教えられているのかといった、日本語教育や、文学や哲学といった専門の授業を取得しました。他にも、街はルネサンス発祥の地であり、美術品で溢れているため芸術にも興味が沸き、美術史などの授業も受け、また、週末は友人達と近くの町へ旅行をしたり、教会や美術館を巡ったりと、いつまでも飽きることがありませんでした。時間の流れ、見る景色全てが刺激的で、やりたいことを思う存分しているのに、不思議と時間に追われるといった感覚がないのは、イタリアという国がゆったりと人間らしい生活をしていたからでしょうか。

留学という新たなフィールドで特に感じたことは、異文化という非日常生活の中で日本に居るだけでは感じ得なかった、自分にとって本当に大切なもの、必要なものが見えてきたということでした。 確かに、既に日常生活で大切なものを見分ける目を持っている人もいるでしょうが、情報が氾濫し、欲しい物はいつでも手に入る、そんな混沌とした現実でいかに自分の大事なものを見つけるかは至極難しいと思います。

イタリア人と接して感じたことは、彼らは自分にとって大切なものは何かを知っているということでした。 例えば、イタリア人にとって休暇とは、大切な家族と過ごす必要不可欠なものです。一般的に1~2週間のクリスマス休暇に、パスクワ(復活祭のこと)の休暇、そして約1ヶ月以上の夏休みを取ります。イタリア人にとって、人生を楽しむことは何よりも重要なのです。おいしいものを食べること、大切な人と過ごすこと、自分に似合うものを身につけること、後世に伝えられるような価値あるものを持つこと、時間の流れに沿ってゆっくりと生活をすること。そのために働き、勉強するといっても過言ではありません。 イタリアを訪れる人が必ずと言っていい程もう一度来たいと言うのは、暖かい太陽の光を求めてくるだけではなく、そういった‘人間の幸せ‘に素直な雰囲気に、惹きつけられるからでしょう。

私はこの留学を通して、人生を楽しむ術をイタリア人は知っていると改めて思いました。 そして、この街は繰り返される日常生活を大切に過ごしていきたくなる気分にさせる、そんな魅力に包まれていました。自分の力ではどうしようもない事、仕方のない事があったとしても、それを許し、ありのままを受け入れていくということは時に難しいけれど、嫌な感情を持ち続けるよりも自分が幸せでいられるのではないかと、今では感じています。 彼らは一同に、大切なものとは家族や友達、自分の国や街であると力強く言います。

イタリアという本当に素敵な国で、限られた時間の中で擦り切れるほど謳歌できたことを誇りに思っています。そして、留学を支援してくれた、両親、大学関係者の方々には感謝の気持ちで一杯です。大学を卒業しても、微力ながら群馬大学の国際交流活動に何らかの形で貢献していけたらと思っています。

教養としての台湾

東海大学(平成19年度交換留生) 奥村 賢司

東海大学(平成19年度交換留生) 奥村 賢司
東海大学キャンパス

台湾桃園空港に降り立ったときのことを今でも鮮明に覚えている。降り立ったときにまず感じたのは台湾という国の「におい」を嗅いだことだ。蒸し暑い中感じたそれは今まで嗅いだことのない「におい」であるとともにこれから自分の身に起こる事への期待と言い知れぬ不安をかりたてるものだった。また台湾は沖縄より南に位置しているのにも関わらず3月の日本の肌寒さと同じぐらい寒く、台湾人から暑いと聞かされて薄着で空港に降り立った自分が滑稽でおかしかったのを覚えている。ご存知の方もいるかもしれないが台湾は正式には国ではない。いや日本が国として認めていないだけというのが正しい表現だ。台湾という存在を知らない方も多いと思う。日本に住んでいる大多数の人がこれほどまで日本に影響を受けている国の存在を、無意識的に排除していることは不思議でならない。世界中を見渡しても台湾は有数の親日国だ。僕は台湾が大好きだ。台湾のどこか懐かしく、独特な「におい」が僕をそうさせたのだ。この「におい」を体の一部として吸収しながら2007年3月から2008年3月まで僕は台湾の東海大学に交換留学した。

なぜ台湾という国を選んだのかよく人に聞かれる。なぜ留学したのかというレベルから根掘り葉掘り答えるという面倒な経験を台湾留学時代よくしたが、台湾が好きだからと煙に巻いて逃げることが多かった。よくよく考えてみれば留学先に台湾を選ぶなんて特殊な選択である。そもそも留学することは大学に入学する前からきめていたが、英語圏、特に小学校のころにホームステイしたオーストラリアを希望していた。しかし、何がどう転んだのか台湾に留学することにした。やはり人と違うことを強く求めたからだと思う。英語なら日本でも学べる。中国語なんて一生でめったに学ぶ機会がないかもしれないと考え台湾を留学先に選んだ。それにどこか謎めいた台湾という響きに惹かれてしまった。

実際に台湾に留学してみて僕の前に大きく立ちはだかった壁はやはり中国語だ。当時の僕は英語が得意科目だったので何とかなるだろうと考えていて、語学に対して多少は自信があった。しかし、渡航1ヶ月でその自信は見事に打ち砕かれた。発音記号通りに発音しているのに通じない。何を言っているのかわからないと話すごとに言われ何度となく打ちひしがれた。しかし、そこで間違えを恐れて黙ってしまっては何もならないので、何度となく試行錯誤していき半年ぐらいたつと、生活するのに支障がないぐらいまでの語学力がついた。中国語の難しさはやはり日本語との発音の違いにあると思う。

そのうち中国語に支障がなくなってくると次第に周りが見えてきた。周りとはどういうことかといえば台湾という国への純粋なる興味と台湾を取り巻く国際関係である。なぜか日本から持ってきた日本史の教科書の復習から始めた。ただの暗記事項として高校で習った日中平和友好条約という単語が次第に現実味を帯びてきた。そんな中、交換留学生なので単位のため履修していた日本語学科の授業で日中平和友好条約の話題になった。復習の甲斐があってその条約成り立ちから台湾にもたらした結果などを得意になって話した。しかし、ここではどんなに立派な答えを並べてもここでは意味がないのだと直感した。そのときから僕は広がる関心に比例するようにいいようのない違和感に悩まされた。そのような折転機となったのはフィリピンへのスタディーツアーだ。日本語学科の大学院の先生が主催されたツアーで9日間フィリピンに滞在した。そこで出会った歴史の生き証人、元従軍慰安婦のおばあちゃんの話を聞く貴重な体験をした。他にもフィリピンの異常ともいえる所得格差やストリートチルドレンの姿など事実として見せ付けられてやっと気がついた。想像を超える世界がかつて実際にあったし、今も存在しているということ。いくら考えても答えが見つからない問題があるということ。答えが見つからないから何年も考えている人を差し置いてこれが答えなんて簡単にはいえない。歴史の難しさ、奥深さを知って目を見開かれた瞬間を僕は今でもよく思い出し、忘れないようにしている。

勉強以外の面でも充実した生活を送ることが出来た。語学学校に集まる個性的な面々は、留学しなければ出会うことのなかった貴重な仲間であり互いに深い絆で結ばれているし、台湾で出会った様々な国の友人はかけがえのないものだ。また、台湾でしか味わえない反則技ともいえるほどおいしい中華料理や南国フルーツを始め、台湾各地を旅行し、日本植民地時代の遺跡をめぐったり、台湾に立ち寄ったピースボートを見にいったり、ビーチでお酒を飲んで騒いだり、サッカーで大学の代表として台湾の全国大会に出場できたりと本当に愛しい思い出がいっぱいだ。留学時代の写真を見返すたびに留学して本当によかったなと実感する。留学して選択肢が広がった。英語圏と違って英語力で直接的に就職に有利になるわけではないけども、今の時代が変化すれば台湾で培った中国語や異国での留学経験というのは必ず武器になるだろうし、どこでも生きていけるたくましさが身についたことは大きな収穫である。留学中たくさんの理解できないことに出くわした。誰にでも自分なりの留学が出来ると思うので、台湾という未知の国に留学してみてはいかがだろうか。

留学生活を終えて

ダラム大学(平成8年度交換留生) 二星 寿美江

ダラムでの留学生活は、一瞬の出来事のようで、しかし、多くのことが凝縮された一年でした。

大学生活は、授業数は少ないもののその事前準備と復習と、時間的にはとても忙しく過ぎていきました。とはいえ、ダラム大学の学習体制(授業カリキュラム、コンピューター機器、図書館、LL教室の各国言語によるテープ、ビデオの貸出と、衛星放送など)が、広く自由に学生に解放されているので、非常に便利です。自主的に勉強しなければ毎日1時間の講義についていけなくなるし、最終的な試験の準備のために、"学生に勉強させる"十分な体制を大学は提供しています。あくまでも、学生の興味にもとづいた授業選択システムや学生中心の授業運営、そしてそれをサポートするのに十分な教材、施設の設置など、そういうものが群大にもあったらいいのに、とつくづく思いました。そういう意味で、同じ大学生でも日本の学生との意識の違い、あるいは大学のもつ雰囲気の違いを感じました。

基本的に学生はカレッジ(寮)で生活しています。各カレッジには様々な設備がありますが、各カレッジごとにバーがあるのには驚きました。カレッジ・バーは学生が運営(バーテンは学生のアルバイト)しており、夜8時から11時までは毎晩利用できます。お酒を飲みながら友達とおしゃべりして楽しもうとする学生たちの一つの交流の場となっています。イギリス人にありがちなちょっと気取った感じや上品さ、あるいはとても学生とは思えないような雰囲気を漂わせたり、バーに行くと普段とはまた少し違った面をかいま見ることができてとてもいい刺激になります。また私達のような交換留学生にとっても、友達になるきっかけや積極的に話そうとする機会を与えてくれる場所でもあります。ややもすると閉鎖的になりがちなカレッジ生活を、いかに楽しむかということに対して、常に前向きで積極的な姿勢が、バーでの時間はもちろん、学生自身が企画する様々な行事(各種パーティー、ボップ、コンサートなど)とそれらに参加する彼らの「楽しむ姿」を通してとても印象的に感じました。

ダラムは小さな町ですが、立派な大聖堂を中心とした古い町並みやきれいな自然に囲まれていてとても静かです。そういった恵まれた環境のなかにいると、急な上り坂やお店が5時に閉まってしまうことや、土日は休みなんてことも不便とは感じることなく、かえって自分の時間を大切にすることや初対面な人との関わりが何よりのコミュニケーションであること、またその楽しさを実感しました。そして今までの自分に対する反省も含めて、向こうで経験してそして感じたことを無駄にしないよう、これからの自分につなげていけるようにしたいと思います。

根無し草

クウェンティン・クリスプ

文脈がなければ、言葉は意味をなさない。このことは、殊に日本語に当て嵌まる。 来日前は、異文化に対する免疫というようなことは考える必要すらなかった。しかし、日本に来てすぐに、文化的細菌と、初めて遭遇する行動様式に、自分の免疫体制はすっかりまごついてしまった。強迫神経症的な不安に心はふらつき、熱病にでも罹っているようだった。ウィルス同様、思想も目には見えめものだから、どうして訳もなく身体が熱くなるのか、どうして手が震えるのかに戸惑った。

日本の制度に依存して生き、人々に依存して生きなければならない不安感、自分の個人的感情やプライバシーの必要性が汲み取ってもらえない苛立ち、だが、免疫体制も少し出来た今、自分の熱病の症状をくだくだしく述べる気にはなれない。今は、日本人の心の広さと優しさに圧倒され続けている。

新しい言語を習得する時には、長距離ランナーが不可避的に体験する苦しみの時期があるのかもしれない。習得しようとしている言語と自分の母国語との狭間の空き隙に宙づり状態となるような時期、自分を表現するのに、どちらの言語でも出来なくなるような時期が。 先日、日本の伝統的な儀式である餅つきを見た。とある瞬間、餅つきをしている主役達が融けあうように交錯する中、私の目は、雪の上に印された足跡に捕らえられた。そして、そこに存在する、押し黙った空白を思った。アパートの窓から見える、完璧なまでに白い雪、それは、自分の言語的空間、日本語でも、英語でも言い表すことの出来ない、胸の中の感情、沈黙と孤独を表しているように感じられた。それも、やがて雪のように、静かに融け、消えていくことだろう。

これから先は、世界のどこへ行こうとも、根無し草であり続けるのだろう。いつも、遙か遠くに、別の国を待ち、その国を再び見るのはいつのことになるのかと思い患うようになるのだろう。どこへ行こうとも、それはただ仮初のことで、またどこで死のうとも、さよならも言わずに別れることになる友人を持つのであろう。故国イギリスの文脈から抜き取られ、やがて日本という文脈からも抜き取られる私は、文脈を失ったことばとなるのであろう。

ダラム留学体験記

野口 覚人

ダラム大学での一年間の交換留学を終えてから、もうすぐ丸2年になる。改めて留学当時のことや、留学前、また、留学後の群大での生活を思い返してみる。

直接的に、「留学したからこうなった」、と目に見える変化を言葉にするようなことはないが、やはり、留学というのは貴重な体験であって、留学によって見えてきたことは沢山あるように思う。ここではあまり具体的なことまでは語れないので、留学に興味を持っている学生に向けて、僕なりのメッセージを送りたい。

まず、留学に対して、あまり硬く考えすぎない方がいいと思う。個人的に正規の手続きを経て自力のみでの留学を目指すのならば話は別だが、交換留学の場合は大学間の協定に基づくため、様々なサポートもあるので、健康な心と体があれば、誰でもやってゆけると思う。第一に必要なことは、自分にとっては遠いものだと思っている留学を、身近な存在として考えてみることだ。交換留学という制度は、誰にだって開かれているし、誰にだって可能性はある。自分がまず一歩踏み出してみることで、そのたった一歩から、想像もつかないほどの広い世界が見えてくることに、きっと驚くに違いない。留学して勉強したいことや、やりたいこと、そういうことが具体的に見えていれば、それが一番いいかも知れないけれど、そういうことを探すために留学してみるというのも、立派な目的であっていいと思う。普通に学生生活を送っていたら、見えないことや思い付かないようなことを、留学という『きっかけ』によって、突然、発見できるかも知れない。特に何もなかったとしても、一年間海外で生活したということは、絶対にプラスになると思う。大学を卒業してからの進路は人によって様々だろうけど、どのような進路に進むにしても、留学して得た体験は、きっと大きな財産になるはずだ。まずは、留学を考えてみること。それだけで、視界が一気に広がる。自分の可能性も、一気に広がる。最初の一歩をまずは踏み出してみるということの大切さが、僕がダラムへの留学で得た、一番大きな財産だと思う。