伊藤賢一

伊藤賢一 (いとう・けんいち)教授

伊藤賢一 教授
  • 出身地: 山形県
  • 最終学歴/学位: 東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了/博士(社会学)
  • 研究室: 10号館508
  • 所属学会: 日本社会学会,関東社会学会,日本社会学史学会,社会情報学会(SSI),日本社会学理論学会, International Sociological Association (ISA)
  • 専門分野: 理論社会学,社会学史
  • 担当科目: 社会学入門(教養科目),理論社会学Ⅰ・Ⅱ,コミュニケーション論Bなど
  • 個人ページ: http://www.si.gunma-u.ac.jp/~itoken

現在の研究テーマ

  • J・ハーバマスを中心としたフランクフルト学派の社会理論に関する学説研究
  • 情報社会における公共圏(公共的な議論の空間)を作りだす可能性に関する研究
  • 社会の個人化・私化を促すメカニズムに関する理論的探究

代表的な研究業績

専攻分野・研究内容紹介

自分の生きている社会を外側から見る

高校生のときは自分が社会学の研究者になるとは夢にも思いませんでした。社会学という学問に触れ、その面白さにとりつかれたのは、大学の一般教養科目で見田宗介先生の社会学の講義を受けたときです。 今、学生に教える立場になって思い返してみても、中身の濃い授業でした。教養課程の学生(大部分は1年生)に、よくこのようなことを教えたものだ、と半ばあきれるような「欲張り」な授業でした。教科書に指定された本は、学術書にほとんど触れたことのない大学の新入生には歯が立たない類の本で、何度読んでみてもまったく内容が頭に入ってきませんでした。それでも頑張って5ページ読んでは居眠り、といったことを繰り返していたと思います。

そのように難しい授業だったにもかかわらず社会学に惹かれたのは、自分達の生きている社会・世界を外側から見る、ということが新鮮で面白かったからだと思います。もちろん、大学の教室の中で日本語で考えているわけですから、厳密な意味で「外側から」見ることにはならないわけですが、それでも自分が解釈しているのとは違う可能性を見いだす、ということは当時の大学生の私には心踊る体験でした。

いろいろ発見のあった授業でしたが、たしか「目標を持っていきる」という生き方は、人を不幸にする生き方でもある、というようなことを聞いたときは、とくに衝撃が大きかったと思います。私はそれだけナイーブな学生だったということなのですが、たとえば、大学受験が控えているとき、多くの受験生は大学に入学したら「本当の」生活や幸福が待っている、と思って、いろいろなことを我慢して受験勉強をしています。ところが、いざ大学に入ってみると、教養課程の間は専門の「本当の」勉強の準備を求められ、専門課程に進むと卒論や就職のための準備を求められ、就職した後も、近い将来の会議・交渉・昇進・試験…等々ために何かしら準備しておくことを求められるのです。このように、一般には推奨されているはずの、「将来の目標のために現在の欲求を我慢する」という生き方は、それだけ人々の現在の生活を貧しくしていることになるのではないか、近代社会とはこのような傾向をますます強めている社会なのではないか、というような趣旨だったかと思います。かといって、われわれの多くは「目標のために努力する」ことを止めるわけにはいかないのですが、この授業を受けたときには、ものごとにはさまざまな見方がある、ということを実感しました。

高度情報社会のメカニズムを探る

専門課程に進んでからは、前よりは学術書も読めるようになっていましたが、外国の有名な社会学者が書いた理論書は日本語訳で読んでもなかなか難解で、友人と読書会をつくって輪読していました。おぼろげながら何を言っているのか分かった(と思った)時は、とても嬉しかったのを覚えています〔群馬大学の学生諸君も、一人では読めないような本を友人と一緒に読んで議論するような読書会のような活動を、もっとしてもいいのではないでしょうか。昔から大学生はそういうことをしていたのですが、人と話してみると、それまで思いつかなかった新しいアイディアを思いついたり、友人の意外な一面を見たりと、思わぬ効用があるものです〕。

実は学部生のときに友人と読んだのがドイツの社会学者・ハーバマスの『コミュニケーション的行為の理論』なのですが、今でもハーバマス理論の研究をしているのですから、もう20年以上付き合っていることになります。

ハーバマスのどこが面白いのか、ということを人に分かりやすく伝えるのは難しいのですが、当時の私は、学生達や社会に広がっていた安易な相対主義(人によって価値観は違うのだから、他人のことには口を出すな、というような考え方)に対する憤りのようなものを感じていて、ハーバマスの議論が相対主義に対する反論の基礎を与えてくれるように感じたのだと思います。ハーバマスのいうコミュニケーションは、通常われわれが考えるようなコミュニケーション(「親子のコミュニケーションが足りない」、というような場合のそれ)とは少し違っていて、学術的な議論や、価値・道徳をめぐる討論といったものを想定しています。ここには、感情的な交流はまったくないわけではありませんが、それとは別の次元の話をしています。このような、議論や討論の局面における「合理性」というものがありうるのではないか、という発想はとても新鮮でした。彼のいう「公共圏」や「コミュニケーション的合理性」という考え方は、現在の高度情報社会を考える上でも重要なヒントになりうる、と思っています。

社会学の理論は、このように抽象的・観念的で、日常の生活とはあまり関係のない話に聞こえることも多いのですが、逆に「日常とは関係のない外部」から見た方が、問題がよく見えることもあるものです。