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教員紹介

南谷覺正 (みなみたに・あきまさ)教授

  • 出身地: 山口県
  • 最終学歴/学位: 東京大学人文科学研究科博士課程退学/修士(英語・英文学)
  • 研究室: 教養教育棟GC205
  • 所属学会: 大学英語教育学会(JACET),日本ヘミングウェイ協会など
  • 専門分野: 文学,文化論など
  • 担当科目: 特別研究Ⅰ,Ⅱ(大学院),情報文化特論Ⅰ(大学院),卒業研究,社会情報学ゼミ,情報文化論A,社会情報学A(分担),専門英語,社会情報学入門(教養科目),英語(教養科目),選択英語BⅠ(教養科目)
  • 個人ページ: http://www.si.gunma-u.ac.jp/~minamit/index-j.html

現在の研究テーマ


代表的な研究業績

論文(過去3年):

翻訳:

専攻分野・研究内容紹介

興味深い作家の個別研究

文学というと,どうしても絵空ごとという先入主がついてまわるようですが,英語の "literature(文学)" は,printed information (文字化された情報)という包括的な意味を持っており,さまざまな種類の文献を含み得るものです。個人的には,1)(歴史的)事実,2)人間的経験,3)(独自の優れた)思想/感覚,といったものを真率に記録した文学に関心を持っています。社会情報学部に移籍してからは,国,ジャンル,時代といった文学部的専門性の壁はなるべく取り払い,幅広い分野の文学を読んで関心を広げるようにしています。

大学生のときは,19世紀イギリスの文人チャールズ・ラム(Charles Lamb)の随筆集 Essays of Elia(『エリア随筆集』)を卒論のテーマに選びました。そのユーモアは神品と讚えられてきたもので,今読み返しても,これだけのものが書かれることはもうあるまいとさえ思います。ラムの英語は古風で難しく,結局は稚拙な論文にとどまってしまいましたが,ブランデン(Edmund Blunden),平田禿木,福原麟太郎といった,日本の英文学の故郷になじみができたこととあわせて,いい立脚点を見つけることができたように思います。

優れた著作家は,学ぶに価するそれぞれの経験や思いを巧みに文字化してくれていますので,それらを読むことで,人間,および人間の世界をよく知ることができます。詳しい伝記が書かれている場合も少なくありません。医学の進歩のために献体される方々がいますが,それと似て,文学者という人たちは,生きた自分をまるごと世の中に献じているようなものです。(作家になることは,素っ裸で大の字になって,日本橋の上に寝るようなもの,と言った人がいます。)"The proper study of man is man."(人間にふさわしい研究対象は人間である)というよく知られた言葉があります。大学生のあいだに,人間的に何かいいものを奥深く蔵している文学者や芸術家と出会い,その作品,生涯,時代背景を集中的に研究してみるのは,一生の知的・精神的財産になると思います。

読書とは,放っておけば次々に忘却の闇の中へと葬り去られていく運命の文化遺産(=作品)の,埋もれかかっている微かな声に耳を澄まし,それと心を通わせることによって,われわれの生きた歴史の薄明かりの中に連れ戻す行為です。ですから,心を籠めて本を読むというそのこと自体が,もう1つの立派な文化的貢献になっています。(つまり,われわれ自体がメディア=霊媒なのです。)大学生の「本離れ」が憂慮されて久しいですが,そのあたりをもう一度よく考えてもらえれば,と思います。

「學而時習之不亦説乎」(学んで時にこれを習う,またよろこばしからずや)―― 本を読んだり人から教えを受けて,それを時間をかけて,現実に即しながら真に自分のものにしていく,新しい時代に適合したものにしていく,そういう営為ほど,深い喜びを与えてくれるものはない ―― 2500年以上も前に孔子が弟子たちに語った言葉は,今でも文学研究の勘所を押さえた言葉として立派に通用します。驚くべきことに思われるかもしれませんが,同時に,文学の不易を思えば,当然とも言えるでしょう。

文学は,人と同じく,「縁」によって取り持たれているとつくづく感じます。あることがらに魅かれると,それが機縁となって,興味深い作家のもとへしばしば導かれますし,またその逆のこともあります。古信楽を眺めているうちに,いつの間にか外村繁を読むようになり,ジェイムズ・ジョイスを読んでいるうちに,ひょんなことからアイルランドに渡るの類いです。

情報文化研究

ここ数年,「情報と文化」の領域で一連のささやかな共同プロジェクトを行っています。これまで扱ってきたテーマは,「教養」(2004),「ジェンダー」(2005),「都市」(2006),「翻訳」(2007),「芸術」(2008),「歴史」(2009),「テクストと作者」(2010),「性愛」(2011),―― 具体的内容については,http://www.si.gunma-u.ac.jp/kenkyu/ronshu.htmlをご覧下さい ―― で,こうして列挙するとそれぞれバラバラに見えますが,実は全体に通底する感覚がありまして,1つの領域についてよりよく知るようになりますと,その知見は別のカテゴリーの理解にも役立つのです。不思議なほどに,です。文化的,社会的な諸事象が,相互に絡まり合っているのがよく分かります。あるところだけしゃにむにドリルで掘削してもなかなかうまくいかなくなってきたのはそのためでしょう。「情報」をキーにした,人文・社会科学的なコンテクスト研究(=社会情報学)の必要が出てきた所以です。

20世紀後半から「情報」が,急に地から涌いたように登場し,あれよあれよという間に舞台を席捲し,われわれの日常生活にまで浸透してくるに及んで,「文化」もいろいろな面で再考を迫られるようになりました。「情報」を新時代の寵児としてセンセーショナルにもてはやしたり,逆に薄っぺらなもの,有害なものとして頭から排斥するのではなく,われわれの営々とした暮らしを中心にすえて,これまでよく見えなかった種々のつながりを鳥瞰させてくれる agentとして遇するのが,21世紀にふさわしい態度と言えましょう。そうでなければ,近代を通じて澱のように溜ってきた諸問題は,克服できないまま,病膏肓に入ってしまいかねません。学生の皆さんも,「情報」をテコにして,今まで回路が形成されていなかったところに新しい道を開拓する試みを意欲的に行ってほしいと思います。時代もまさにそれを求めています。

授業の「情報文化論」では,「情報と文化」の理論的な構図(大学院)と,異文化理解に関連した事例研究(学部)を行っています。

外国の文化(=ある国の人々の大部分に共通した考え方,生き方)には,人間としての普遍的な要素が多くあるのは当然としても,なかなか理解しづらい面もあります。しかし今後の世界を考えると,それぞれの国が,諸外国の文化をよく研究していくようにならなければ,とても立ちゆかないのは目に見えています。

日本文化は外国人に理解できるはずがない,と腹の底で思っている日本人は,まだ意外に多いようです。しかし現実には,外国における専門家レベルでの日本研究は,すでに日本人研究者の顔色をなからしめるほど高度になっているものもあり,日本人が日本文化について,外国人による研究から学べることが多くなってきています。他方,日本人による外国研究も,いろいろな領域で専門性を増し,充実してきているようです。ルース・ベネディクトの『菊と刀』(1946)の時代に比べると,隔世の感があります。島国の日本は,外国との文化交流,意思疎通のプラットフォーム建設を意識的に行わないと,ついには文化的な意味での「ガラパゴス」になりかねません。個人についても同じことが言えます。外国文化は,侮蔑や好奇の対象ではなく,互いの文化をよりよくしていくための,貴重な情報源と見なすべきものです。

私の少年時代は,風呂ひとつわかすにも,井戸水をバケツで何度も運んで風呂釜に水を満たし,薪を小1時間燃やしてやっといい湯加減になるといったふうで,家事はどれもこれも結構な労働でした。しかしその分,四季折々の夕暮れの情景に包まれたり,薪のトゲが指に刺さって痛んだり,踊る炎を見つめたり,燃える薪や鉄釜の湯独特の匂いがしたりと,暮らし自体が身体的経験に富むものでした。ところが今は栓をひねればサッとあたりさわりのない湯が出てきますので,そこで浮いた時間は,テレビや音楽やゲームが楽しめるという寸法です。まあ誰だって楽なほうを歓迎するというものでしょう。しかし,そうした新時代のメディアから得られるものは,ほとんどが「模擬現実」であり,楽しくはあっても,身体的な経験はどうしても希薄になってしまう憾みがあります。現代生活は,そんな,実質がない,生きている手応えがないような部分がかなりを占めるようになりました。(『千と千尋の神隠し』の「カオナシ」を見ていたら,作者の意図は別かもしれませんが,何となくそのことを連想しました。)ケータイによる交友,暇な時間のメールやゲーム,食事をしながらのテレビ,さらに24時間何でもありのインターネットと,その傾向にはますます拍車がかかっているようです。昔の生活には,辟易するような重苦しさがありましたし,モノもエネルギーも情報も乏しく,そこに戻りたいとはあまり感じませんが,かと言って,今のような生活で万事めでたしと言うわけにはとてもいかないようです。

"You are what you eat."(あなたは,あなたが食べるものそのもの),つまり,fast foodや junk foodばかり食べているとその食べ物みたいな人間になりますよ,という意味の英語の俚言があります。これは情報摂取についてもそのままあてはまる話です。junk information ばかり取り入れていると,ほんとうに酔生夢死になってしまいかねません。どのような情報を取り入れていくかに意識的になるためには,現代社会の文化と情報がどのような状況にあるのかという洞察が不可欠です。経済活動と文化的生活が分離してしまっているということ,大衆社会のもっともやわらかな部分が,営利という欲望を隠し持つ情報の洪水にさらされていること,情報様式がわれわれの現実感覚,知覚,人間関係に影響を及ぼしていること,目に見えない形で管理・監視体制,情報操作のシステム化がじわじわと進んできていること,メディアが大きくなると却って大事な情報が見えなくなってしまうこと,等々 ―― 情報と文化の問題は,他人事ではなく,自分自身の生き方と不可分の問題であり,これからの社会のあり方と絡めて,いろいろと考えなければならないことが多くあるようです。

映画の『ブレードランナー』は,未来社会の物語で,ラストシーン以外は地獄のイメージにあふれ,草木1本見当たりません。動物は蛇が出てきますが,それも人工品という設定です。同じように,未来を展望した社会情報論とかメディア論とかいった本では,「自然」はまるで登場してこないのが普通です。しかし私など,幸福というイメージを描こうとしますと,そこには,人間が最終的にその生を依存しているところの,生命の本家本元である,自然がなくてはかないませんので,考えるときには常に「自然生態的」に考えるよう自分を戒めています。現在世界の人口の過半数が,都市に集中して住み,田園はまさに荒れなんとしている状況ですが,実はほとんどの人は,近くに清流があったり,花咲く堤や,美しい森や,青々とした水田や畑があったりしてはじめてほっと息がつけるのではないかと思います。都会は雇用と刺激が豊富ですから,特に若者はどうしても集中してしまうのですね。しかし21世紀には,都市は都市として結構ですが,自然と都市との生態的バランスを取り戻す道筋をつけなくては,持続可能な社会には到底なり得ません。そのためには,情報と文化が大きな役割を担わなくてはならないと思っています。新しい時代の『アンクル・トムの小屋』(Uncle Tom's Cabin)や『ジャングル』(The Jungle)や『沈黙の春』(Silent Spring)―― これらの文化的情報が,奴隷制廃止や,食品加工の衛生環境の整備や,農薬の危険性の認知に大きく貢献したと言われています ―― がもっともっと生み出され,広められていく中で,人間社会の新しいビジョンが誕生してきてほしいものです。「近代システム」がどのような矛盾を抱え込んでいるのか,よく観察し分析することが第一歩になります。「社会情報学」は,これまでわれわれが果たそうとして果たし得なかった「近代の超克」の切り札の1枚になる可能性を秘めていると感じています。

言葉の研究

英語の授業を長年担当しているうちに,英語の文法,語法,語彙,表現についてあれこれ調べたり考えたりするのが習い性となり,また母語との比較ということから,翻訳にも関心を持つようになりました。

日本語と英語がこんなにも違っているということは,バベルの塔の呪いとまでは言わずとも,まことに勝手が悪く,若年期の多くの労力を英語学習に割くのは損だという気がしているかもしれません。しかし世界にいろいろな言語があることは,むしろ祝福だと考えられなくもないのです。と言いますのは,こうした言語的多様性によって,日本人はたとえば英語だけからでも尽きることなく学べますし,その逆もまた真だからです。有名なパラドックス(=一見真理でないように見えて実は真理であること)ですが,違いが少なければ,すんなり理解できても得られるものは少なく,逆に違いが大きければ,理解には大変な苦労が伴いますが,得られる体験は豊かなのです。現在は,コミュニケーションのための外国語学習が強調されており,それはかつての語学教育に欠けていたものを補う意味ではいいことでしょう。しかし「私はお腹がすきました。あなたはフライドチキンを食べたくはないですか?」というようなレベルでの語学学習だけでは,学べることは限られています。(日本の大学の英語教育が,ピカートの言う「ペチャクチャの言語」教育に雪崩込んでいく様は,日本が原発建設に雪崩込んでいった経緯と,どことなく似ています。)そうした「実用的」な表現ももちろん必要ですが,日本語のそれとは違う,それぞれの言語の深層(こころ)に触れるような経験も持ちたいものです。それには,その言語による優れた文学に赴くに如くはないのです。文学というのがそのための場(メディア)だからです。日本語を勉強している外国人が,実用とは別に,日本文学の古典や歴史を熱心に読んでくれていたとしたら,感心すると同時に,嬉しい気持ちがしないでしょうか。誰しも,自国の歴史や文化の,苦労したところや優れたところを,世界の人たちに知ってもらい,よく理解してもらいたいと願っているものです。

「外国語を知らない人は,母語について何も知らない」("Wer fremde Sprachen nicht kennt, weiss nichts von seiner eigenen.")というゲーテの有名な言葉があります。日本語をよく知るためにも,(できれば複数の)外国語の基礎を,大学生のうちに培っておきましょう。それは情報のパイプを増やすという実利もありますが,言語というメディアについて弁証法的(=自分自身の中で,言語の機微について,対話を交わせるよう)になるという,とても発展性に富む面があるからです。たとえば日本語で避けて通れない敬語や丁寧語は,中国語の視点から見ると,気配りに細やかで折目正しいという好ましい面と,フォーマリティーにこだわる偽善的で鬱陶しい面の両方があることがよく見えてきます。また英語を勉強していると,その冠詞や前置詞には,外国人を寄せつけないような霊妙なところがあるのに気づきますが,そうした働きは日本語のどこが受け持っているのかについて,おのずと考えるようになるでしょう。

コミュニケーションの手段は何も言葉に限ったわけでなく,花を捻ったり,便器をさかしまに置いたり,あるいは流し目を送ったりというのも立派なコミュニケーションです。日本人は「以心伝心」とか「腹芸」というものを尊ぶとよく言われますが,では言葉はなくても困らないか,というとそんなことはなくて,高度情報化社会と言っても,言葉の流通量が爆発的に増えた社会の別名に他ならないと言えるくらいです。概念(concept)の比較的精密な操作ということにおいては,「言葉」は他のメディアの追随を許しません。そんな素晴しい文化遺産であるこの言語というメディアを,実用ばかりでなく,いい考えを呼び込むためにも使いたいものです。自由に物事を考えられるということは,自分らしい文体で考えられるということです。「文は人なり("Le style, c'est l'homme.")」とよく言いますね。これは裏から読めば,よく文(=心)の鍛練をして,自分の文体(=アイデンティティ)を研ぎ出しながら,より人間らしく自由になっていって下さい,という意味になります。

最後に翻訳についてですが,翻訳の隠喩としては,楽譜(=原文)と演奏(=翻訳)のそれが好きなものの1つです。たとえばベートーヴェンがどうした想いである弦楽四重奏曲を作曲したのか,誰にも断定することはできません。残されているのは楽譜だけです。しかし演奏者は,客観的証拠がないのをいいことに,自分勝手な解釈で演奏してかまわないというものでもないでしょう。良心的になろうとすれば,どうしても想像裡の作曲家と自分との間で,綿密に対話を繰り返しながら曲想を探っていかざるを得ません。そうしたプロセスには,他では得難い何か貴重なものがあるように思うのです。

翻訳をしているときは,原文のテクストを,これ以上はないほど丹念に読みますし,日本語化する過程で強い疑似体験が得られますので,文学研究の方法として悪くないものだと思っています。ヘミングウェイ(Ernest Hemingway)の翻訳をしたのは,もう一昔前のことですが,"Big Two-Hearted River"(「大きな二つの心臓の河」)やThe Old Man and the Sea(『老人と海』)など,そこに描かれた幾つかの情景は,今でも目の奥に鮮やかに残っています。

翻訳を通じて日本語の生態系も少しずつ新陳代謝をするところがあります。二葉亭四迷の「あひゞき」,若松賤子の『小公子』,近いところでは村上春樹などその好例で,それは,外国から新しい植物の種苗を移入することに喩えられるかもしれません。りんごやコスモスなども比較的新しい外来種ですが,今ではもうすっかり日本の風土になじみ,四季を彩ってくれていますね。同様に,言葉の森が豊かになれば,その恵みはわれわれのみならず,後代にも及ぶものとなるのです。


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文化の領域では数年でいい成果が出せるということはまずありません。根気が何より求められる資質になります。そのかわり,と言っては何ですが,うまくすれば,時間とともにゆっくり伸び,年齢とともに成熟していける可能性があります。たとえば葛飾北斎,富岡鉄斎,平櫛田中といった人たちは,いずれも成長し続け,円熟し続け,「後期高齢者」になってから大輪の花を咲かせました。彼らは才能のずば抜けた芸術家で,例外だと言われるかもしれませんが,われわれ一介の市井人でも,自分のやりたい文化的課題を持っている場合には,それは大きな励みになると思います。後半生を充実させるためには,若いうちから地道な努力(自分に対する施肥)をしておくにこしたことはありません。あせらずともよいし,回り道や失敗もいい養分になります。外国語の習得,新しいいろいろなメディアへの習熟,現実のさまざまな経験(苦労と喜び),読書三昧,新旧の芸術体験,感覚を磨き,より深く考えようとする心的態度,こつこつと文章を書き,何度も推敲する(彫心鏤骨の)習慣,そして何よりも,たんなる趣味や享楽や名利のためではない,文化研究のしっかりとした目的意識の形成 ―― 若いうちに仕込んでおいたほうがいいことは,けっして少なくありません。それらは後年かならず何かの役に立つでしょう。やっておいてよかったと心から思うはずです。

皆さんの中に,文学,芸術,文化,言葉に関心のある人,翻訳にチャレンジしてみたいという人がいれば,大いに歓迎したいと思います。


(追記)3.11は,被害を免れている私にも,その心的影響の深甚という点で,おそらく生涯忘れられないであろう日となりました。日本の社会,企業,大学,メディアの不良部分が,これほどまでに構造的に根深いものであったとは ―― それまで薄々感づいてはいたものの,それでもなお,最低限の信頼を保留してきた自分の甘さを思い知らされました。同じ思いの人も必ずやいらっしゃることでしょう。しかし,それがこうしてはっきりした以上,逆にそこを心のreference point として,もう少し人間であることに情けなさを感じないでも済むような世の中を招じ入れるべく,互いに,地に足のついた努力を重ねつつ,前進していきたいものです。チャールズ・コットンの詩にあるような,人間としての晴れやかさを保ちながら。


Plague on't! the last was ill enough,やれ,さても去年の禍々しきことよ!
This cannot but make better proof;されば,今年の吉は約束されたも同然
Or at the worst, as we brush'd throughよしんば福来らずとも,去年切り抜けしわれら
The last, why so we may this too;今年もただ切り抜けるまでのこと
And then the next in reason shou'dかく切り抜け続けゆけば,その明くる年には
Be superexcellently good:さぞや豊かな幸あるべきぞ

(2008/平成20年9月記;2012/平成24年4月改訂・追記)


Last Update 2012/04/09