説得力のある議論とは

われわれはすでに社会学者である

なーんだ、「理論社会学」といっても、そんなに小難しいことをしているわけではないんだな、と思いましたか。こうした「説明」という行為は、実はわれわれがすでに日常生活において行っていることです。あまり意識していないかも知れませんが、これこれのときに人間(あるいは、日本人/群馬県人/大学生/男性/女性/子供/...etc)は、しかじかと振る舞うものである、とわれわれはいつでも自分や周りの人々について了解しているはずです。そうした了解の積み重ねが「常識」を形成している、とも言えるでしょう。だからこそ、ときどきその常識の枠に収まらないような人々の行動を知ったときには、疑問に思ったり不気味な感じがしたりするわけです。凶悪な犯罪のニュースは社会を震撼させますが、その「動機」が常識では理解できないようなとき、もっとも震撼の度合いは大きくなります。

それでも、学問である以上、普通われわれがしているような「説明」と、社会学の「説明」には違いがあります。一言でいうならそれは、説明の説得力をどこまで高めるか、という態度の違い、と言えます。学問にとって、説明の説得力はもっとも重要な問題です。なぜその説明で正しいといえるのか、他の説明の仕方ではなぜいけないのか、という点について、考えられる限りの根拠を集めるのが学問の営みです。日常生活における「説明」では、そこまでの事はしません。根拠を追及するには、それなりに時間やお金(つまり、コスト)がかかるものです。いくらある事件が気になるからといって、手当たり次第に報道内容をチェックしたり、実際に現場に出かけて行って人々にインタビューしたりしていては、日常生活は送れません。

その点、学問の「説明」は、何らかの形で証拠となるものを提示しなければいけません。社会学であれば、多くの場合、重要なのは実際に検証できるデータを示し得るか否か、ということになります。これこれのデータに基づいて、こちらの説明の方が優れているのだ、ということをできるだけわかりやすく示す必要があります。どのようにしたら正しくデータを集めることができるのか、という点については、専門科目の授業(「社会調査論」など)で専門的に解説していますのでそちらに譲りますが、説得力のある議論とは、反論の可能性が開かれているような根拠の提示をともなうものです。

自分独自のレンズをつくるには

卒業研究であるテーマを追及することは「自分なりのレンズをつくること」だ、と先に書きましたが、この自分オリジナルのレンズをつくることは、上で述べたような根拠に支えられた説明をつくっていくことを意味します。卒業研究もひとつの「研究」ですから、いままでの学問が蓄積してきた知のデータベースに、新しい1ページを付け加える営み、ということになります。したがって、その際に大事なのは、いままでの研究(先行研究、といいます)のどこが不満で、自分は新しいページを付け加えるのか、ということです。卒業研究も、他の研究と自らを差別化して特徴を打ち出す必要があります。少子化の説明でも、ケータイの普及の説明でも、これまでになされてきた説明のどこが正しくて、どこが間違っていたと自分は考えるのか、そしてそう考えるのはなぜなのか。このことを明らかにしなければ、自分でつくったレンズがオリジナルだ、とは言えないということになります。

自分でゼロから考え出した(つもりの)説明も、本を読んでみたら既に他の人が考えていた、とか、その説明が誤っていることがすでに誰かに示されていた、とかいうことはよくあることです。これまで誰も思いつかなかったような説明の仕方や、誰も気がつかなかったような誤りに気がつくことは大変なことです。だからこそ価値があるのだ、とも言えます。しかしそのためには、他の人がどんなことを言っていて、どこまで明らかになっているのかを知らなければいけません。一見逆説的ですが、オリジナルなものをめざすには、他の人がどのような議論を展開しているかを勉強しなければならない、とういことになります。


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