社会学的説明とは何か

他の学問とどこが違うのか

社会現象をレンズを通してみるといっても、よく考えてみれば、政治学や経済学といった他の学問だって同じ営みであるわけです。ケータイの普及にしても、未婚率の上昇にしても、経済学(経済的要因)から説明したり、心理学(心理的要因)から説明したりすることだってできるはずです。では、他の学問とは異なる社会学の説明の特徴はどこにあるのでしょうか。

私の考えでは、社会学的説明の特徴は、狭い意味での「社会」を用いて現象を説明するところにあります。社会学の説明は本当にいろいろあって、同一の現象に対してまったく異なる解釈をしているケースもあったりするのですが、どこかで必ず(多くの場合は決定的なところで)この狭い意味での「社会」が登場しているはずです。

ここで、「狭い意味での社会」というのは、ある人々に共有されている特定の考え方のようなものです。「文化」とか「意味」といってもいいかもしれません。とにかく、人々は自分と周りの世界について、そこに意味を見出し、ある価値を読み込んで生きています。

自分と周りの世界に意味と価値を見出す

ちょっと考えてみればわかることですが、私たちは周りにおこる出来事を、「自分に関係ある/ない」と分けて認識しています。テレビで伝えられるすべてのニュースや新聞に載っている全ての記事にたいして、はじめから最後まで、おなじ関心を向けることはあり得ないでしょう。同様に私たちは、世界や自分自身を「よい/悪い」「美しい/醜い」「価値がある/ない」などと序列をつけて考えています。また、自分や他人が行う行為についても「望ましい/望ましくない」「尊敬すべき/軽蔑すべき」と(いつも意識しているわけではありませんが)考えています。しかしその際に用いている意味や価値の基準は、社会が異なれば別のものになり得るものです。

たとえば、ざる蕎麦などの日本蕎麦を食べる場合、ズズーと音を出して食べる人が多いと思います。別にわざと音をたてる必要はないわけですが、音を出しても構わないことになっています。いわゆる「通」の人は、けっこう大きい音を出したりするそうで、そういうことを知識として知っている場合、音を出している人をみて「この人は通なのかも知れない」「粋だねぇ」と尊敬(あるいは畏敬)の念で眺めることもあり得ます。しかし、西洋料理のマナーでは、ものを食べる時に音をたててはいけないことになっています。そういう社会で育った場合、いわゆる「通」の食べ方を見て不快になることは十分考えられるでしょう。

食事のマナーなどはわかりやすい例ですが、何を価値あるものと考え、何をそうでないと考えるかは「社会」や「文化」によって異なります。物理法則や、遺伝子レベルで決定されている行動と比べると、こうした社会的な意味や価値は必然的に成立するようなものではありません。その意味では人々の単なる「思い込み」に過ぎないものです。長い時間が経てば、消えてしまったり内容が変わったりします。しかし、この「思い込み」は、多くの人々に共有されているので、短期間にはなかなか訂正できません。また、そんなものに根拠がないと頭ではわかっていても、感覚として身についてしまっている場合は訂正することがきわめて難しい場合もあります。

単なる思い込みだが、個人の思い通りにはならないもの

たとえば、「美しい体」のイメージが、時代や社会によって異なることはよく知られています。現在では痩せていることが美しい体の不可欠の条件になっており、多くの人々がダイエットに励んでいます。しかし社会や時代によっては、太っている方がよいとされ、ときには豊さの象徴と考えられていました。ミロのヴィーナスやルーベンスが描いたような体形の女性が現在のミスコンテストに出たとしても、おそらくまったく評価されないでしょう。美醜の基準も、ここでいう「狭い意味での社会」の産物なのです。しかし、そのことがわかったからといって、どのような体を美しいと「感じる」か、どのような体に「なりたい」と思うか、という私たちの感覚は容易には変えられません。価値や意味は確かに「思い込み」なのですが、それはときには人を死に追いやる力を持っています(摂食障害、拒食症という形で)。

社会学の説明は、この「思い込み」から成っている狭い意味での「社会」に焦点を当てています。したがって、さまざまな社会現象を引き起こしている人々の行為の背後に、何らかの「思い込み」や「価値」や「意味」を見出そうとするもの、と言えます。


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