緒 言

 

日本における公共事業の拡大と一部見直し

日本においては、第二次世界大戦後の高度経済成長期に、国土整備計画に基づいて公共事業としての大規模土木事業が急ピッチで拡大された(天野 2001)。その最たるものとして国土形成計画法(旧・国土総合開発法)に基づいた全国総合開発計画が挙げられる。1962年の第一次から現在まで第五次に至る開発計画が出されている全国総合開発計画の中でも、特に第二次ではその目標に「人間のための豊かな環境を創る」とあるように、自然環境よりも社会整備を重視した姿勢が見られ、目まぐるしく日本の国土が開発されていった。その後も全国総合開発計画を基にして公共事業として道路、高速道路、新幹線、空港などが次々と整備されていった(国土交通省国土計画局ホームページ)。

1991年のいわゆるバブル崩壊以降続く深刻な不況の中にあっても、「ばらまき」と批判されてもなお、公共事業による内需拡大施策が取られてきた。しかしその結果、周知の通り国・地方財政も国の経済もますます悪化している。

2006年現在、我が国の財政は、税収が約50兆円しかないのに対して、約33兆円も借金(国債発行)をして約83兆円の予算を組んでいる状況である(財務省ホームページ)。この予算のうち約50兆円が公共事業費であり、そのほとんどは将来の国民の借金として積み重ねられていくと言える。

2000年6月の衆議院選挙では、野党が公共事業の見直しを訴えたのに対し、「現在の日本の不況には公共事業の出動が一番のカンフル剤だ」と一貫して主張した与党が敗北した。その後、ようやく「公共事業の抜本的見直し検討会」が立ち上げられた。だが、この「検討会」によって見直しされた、いわゆる「時のアセス」による成果は、6万件以上の事業のうちわずか200余りの事業の中止にすぎなかった(天野 2001)。公共事業による巨大土木工事の最たるものが、ダム建設である。

 

世界におけるダム事業の見直し

世界に目を向けてみれば、日本のとってきた公共事業施策が、今やいかに世界の潮流に逆行したものであるかが窺い知れる。

現在世界では、ダム(より一般的には、コンクリート建造物による治水手法全体)を見直す動きが強まっている。

アメリカにおいては1994年、当時のダニエル・ビアード開墾局総裁の「ダム開発終了」宣言以来、計画の中止、工事の中断、そして撤去へと進んできた。日本でダムを推進する方々は「アメリカで撤去が進んでいるものは、日本では堰と呼んでいる大きさのものだ」としている。いずれにしてもアメリカでは、河川に造ったコンクリート建造物に対して撤去の動きが出ていることは事実である。アメリカでは地方自治体をはじめ、ダムの所有者など保守的な組織の間でもダムの撤去は共通の認識となっている(天野 2001)。

日本にとってこのアメリカの方向転換は重要である。なぜならば、今日の日本におけるダム建設の考え方は、TVA思想による大型ダム造りと大型ダムを貴重とした近代河川工法による治水というアメリカの施策を模倣したものだからである。

明治時代に治水の近代的手法として日本が模倣をしたオランダでは、近年この近代的手法が間違いであったことを認め、自然を再生し、自然に逆らわず洪水をやり過ごす工法を治水に用いている。この「自然に逆らわず洪水をやり過ごす工法」は、皮肉にも日本で江戸時代まで使われていた工法に酷似している。

ドイツでも同様の動きがある。ドイツではオランダと同じように、「治水によかれ」と考えて行ってきた近代河川工法が、近年になって治水にも効果的でなく、また自然を大きく損なったと評価されている。現在ライン川上流で行われている「総合ライン計画(IRP)」のキーワードは「川の再自然化」である。

オーストリアでは、ダムが造られようとしていた森が市民からの募金によって買い取られ(ナショナル・トラスト運動)、川の再自然化が図られている。またドナウ川本流とこの森を隔てていた堤防に水門が開けられ、洪水時には氾濫原に水が入ってこられるようになるといった、川の自然化が実現しつつある(天野 2001)。

 このように先進諸国は、21世紀を『自然再生の時代』とするための“変身”をしている。ダムの見直しがされ、川の再自然化が進められている理由には、CO2の吸収を促進して地球温暖化防止にも有効となると考えられていることもある(天野 2001)。

このように、ダムを代表とする公共土木事業に関する世界の潮流は、一見異なって見える二点をポイントとしている。一つは財政負担が莫大であるので、不必要で自然破壊の源である公共事業をやめること。もう一つは、財政負担がある程度大きくても、自然を再生する事業は優先的に行うことである。実際にはこれらはまったく矛盾しておらず、長い目で見ると自然を再生する方が、財政にとっても、治山治水にとっても、安くつくと考えられる(天野 2001)。

以上のような世界の潮流に対して、未だに6万件近くの公共事業が存在しているのが、残念ながら日本の現状である。しかし、近年、日本においても国民は公共事業、とりわけダムに対して厳しい目を向けつつあり、各地で建設反対運動や、建設見直しを求める動きがある。

 

ダムとは何か

そもそもダムとは、治水・利水・砂防などのために、河川・渓流などを堰き止める構造物で、使用材料からコンクリートダム、フィルダム、構造方式から重力ダム、アーチダムなどに分類される。また、一般にダムと呼ばれているもののうち、堰高が15m未満のものは堰とよばれる。日本で初めてのコンクリートダムは、1900年に神戸の生田川の水道用として建設された。その後、巨大ダム建設の時代を迎え、現在日本には、2,735基のダムと堰があり、さらに500以上のダムが計画されている(天野 2001)。すなわち、国土交通省の計画通りすべて建設されれば、この狭い国土に3,000近いダムと堰が存在することになる。

(注:国土交通省河川局のホームページ上で公開されている資料「ダム事業について」によれば、現在完成しているダムは2,545基、建設中のダム数は245基となっているので、天野氏のデータのうち計画中のものには、より小規模な堰が含まれているものと思われる)。

 

ダムがもたらす諸影響

利水・治水などの面でダムには大きなメリットがある一方で、当然デメリットもある。

ダム建設は、地域の自然環境や社会環境・文化環境を破壊することが想定される、最も大きな公共事業の一つである。ダム開発が大きな環境破壊をもたらす原因は、その開発規模が大きいこと、河川から海に至るまでの広範囲に影響が及ぼされることがあげられている。ダムは、地質学的作用(浸食・運搬・堆積作用)を遮断し、土砂をため込んでいく。その結果、河川の緩衝帯の消滅や、海砂が供給されないことに起因する砂浜の後退や漁獲量の低下なども生じていると推定されている(天野 2001)。

ダムは建設されるとまず周辺の自然が破壊される。建設地では、それまでそこに棲息していた貴重な動植物が棲息の場を失い、最悪の場合絶滅する。また、豊かな自然が失われることで景観が損なわれたり、地滑りが誘発されたりもした。さらには、ダムが建設されるとなれば、それまでそこに住んでいた住人は、全て別の場所への移転することを余儀なくされる。移転と言っても単純に全てが移転できるはずはなく、移転したため伝統文化が継承できなかったり、あるいは温泉地などで生計を立てていた観光業を続けることができなくなったりすることもある(久慈 2001)。

このように、ダムは建設当地において様々な悪影響を及ぼすとする多くの報告がある。さらに、ダムはその下流においても、様々な悪影響を引き起こすことが推察され報告されている。すなわち、ダムによって下流において本来あった水の流れが遮断されたために水質が悪化したり、水質の悪化によって水辺の本来の動植物相が失われたり、川の運搬・浸食・堆積作用がダムによって失われたため砂浜が後退した、などである(久慈 2001)。

これらの推察や報告にもかかわらず、国土交通省(旧・建設省)は長年、ダムによって失われる「自然の浄化能力」や「安全で美しい水」、「多様な生態系」、「川が流れているから生きている水循環」や「自然環境」の重要性をほとんど考慮しないまま、ダムから得られる利益(発電・工業用水・都市用水・農業用水の確保、洪水防止など)のみを計算して、市民にその効果を主として宣伝し、全国にダムを造りあげてきた、と批判されている(天野 2001)。

また、ダム建設は、広大な地域を水没させるため、そこに住む住民の生活環境を根本から破壊する。そればかりではなく、さまざまな動植物の生育環境を破壊し、河川やダム湖の水質を悪化させ、上下流の広大な河川生態系を破壊してしまう、という批判もある(久慈 2001)。

 

生物多様性の保全と絶滅危惧種

ダムをはじめ大型土木工事の悪影響の中でも、近年最も危惧されるのは地域の生態系の破壊である。生態系の破壊は、主として生物多様性の激減によって生じ、このうち最も起こりやすいのは、絶滅危惧種の消失である。

絶滅危惧種とは、絶滅のおそれのある種のことで、環境省および都道府県等自治体の団体によってリストが作成されている。分類群ごとにレッドリスト(レッドデータブックに揚げるべき日本の絶滅のおそれのある野生生物の種のリスト)を作成・公表し、これを基にレッドデータブック(日本の絶滅のおそれのある野生生物の種についてそれらの生息状況等を取りまとめたもの)が順次編纂される。レッドリストのカテゴリーは、日本ではすでに絶滅したと考えられる種を「絶滅(EX)」、飼育・栽培下でのみ存続している種を「野生絶滅(EW)」、絶滅の危機に瀕している種を「絶滅危惧?類」とした中で、ごく近い将来における絶滅の危険性が極めて高い種を「絶滅危惧?A類(CR)」、IA類ほどではないが近い将来における絶滅の危険性が高い種を「絶滅危惧?B類(EN)」とし、絶滅の危険が増大している種を「絶滅危惧?類(VU)」、現時点では絶滅危険度は小さいが、生息条件の変化によっては「絶滅危惧」に移行する可能性のある種を「準絶滅危惧(NT)」、評価するだけの情報が不足している種を「情報不足(DD)」、地域的に孤立している個体群で、絶滅のおそれが高い種を「絶滅のおそれのある地域個体群(LP)」とする7段階にランク分けされる(矢原監修 2003)。

現在の環境影響評価法(いわゆる環境アセスメント法(1999年施行))においては、大型土木工事の前には必ず当該地における生物の生息状況を調査し、生物多様性の保全、特に絶滅危惧種の保全に具体的な対策を取り、関係政府機関の認可を得なければ、工事そのものが認可されない。しかし、計画段階でのアセスメントが行われていない、生態系の予測評価に問題があるなどの問題点がすでに上がっている(環境影響評価情報支援ネットワーク)。また、現在計画中の日本のダムのほとんどはこの法律の施行前に認可されているため、生物多様性と絶滅危惧種の保全対策をとる法的義務がないものとなっている。すなわち、現在進行中のダム建設の多くは、現地調査さえ十分に行われないまま着工していると言わざるをえない状況にある。

 

本研究の目的

数々の影響推察報告や重大な批判があるにもかかわらず、現在日本には未だに500以上のダム建設計画がある。これらのほとんどは、環境影響評価、いわゆる環境アセスメントが法律で義務づけられる以前に計画されたため、実際に建設の前後でどのように地域生態系が改変されるのかを、客観的に研究した例は少ない。このため、現在進行中のダム建設計画においては、未だに過去に計算した利水・治水・発電などのメリットが重視され、自然環境の改変、地域生態系の改変によるデメリットが軽視されている。

そこで本研究では、群馬県内において、1968年に完成した下久保ダム地域、同様に1977年に完成した草木ダム地域、これから本格的な建設に入る八ッ場ダム建設予定地域、現在ダム建設計画が凍結となっている倉渕ダム建設予定地域において、植物相で代表される自然環境の現地調査、および、民族・文化、地質、ダムの利水・治水効果に関する文献調査を行った。この4地域の調査結果を比較解析することにより、ダム建設に伴う、植物相で代表される自然環境、および各種の環境変化の現状を明らかにし、そこからダム建設が地域生態系をどのように改変し、地域社会にどのような影響を与えるものであるかを解明する。


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