V-3-2. ヒアリング調査

 沼田市では、玉原を市の観光の拠点として位置づけており、湿原保護に対しての対策を多く打ち立てている。玉原という地域に対しての沼田市の期待は非常に大きい。
 現在、沼田市は玉原湿原に対しての管理の指針を東京農工大学農学部植生管理学研究室福嶋司教授らの学術調査に求めている。これは、湿原の植生や地形への知識を市の職員が把握し、対策を講じるのは難しいという判断に従ったものである。玉原湿原に現在設置されている高架式の木道は、平成10年から東京農工大の教授等とルートを選定し、平成11年に完成したものである[資料6]。それ以前の木道は、湿原の上に直接置かれたものだった。そのため、木道が植生を傷めつけている上に、湿原の豊富な水の流れを阻害していた。このような湿原保護を意としない旧木道は昭和57年に開催された赤城国体に伴い、玉原を昭和天皇が見学されるという話を聞き群馬県が事業費6000000円をかけ設置した。しかし、昭和天皇は赤城山北麓のヒカリゴケを見学され、この木道を訪れることはなかった。
 木道がなかった頃は、観光客はほとんどいなかった。木道設置後は観光客が増え、湿原への人為的な攪乱、侵入も多くみられるようになった。そこで、沼田市では湿原への侵入を防ぐために昭和61年木柵を設置したのを始まりとして、湿原保護についての取り組みを開始した。民間の自然保護団体や学識者からの意見を求め、湿原を守るには木道を湿原内から撤去する必要があるという判断に至った。当時の沼田市商工観光課は読売新聞記者に「観光的には湿原から木道を撤去したくなかったが、湿原を守るために決定した。沼田市の大事な観光資源を、長く大切にしていきたい」と答えている[資料7]。こうして行われた平成11年度の工事では、湿原の中央を横断していた約150mの木道を撤去し、湿原を迂回する約1km のルートを新しく作った。これが、現在玉原湿原でみられる木道となる[資料6]。新たに設置された木道は、湿原保護への対策が多く取り入れられた。まず、木道を高架式にし、湿原を直接踏みつけないようにした。木道に使用した木材の厚さも10cmとし、耐久性を持たせた。また、玉原は出入り口が一つしかなく、大変混雑するため、入口付近の木道は複線方式とした。これにより、渋滞を回避しようと湿原に踏みいる行為を防ぐことが出来るわけである。
 このように、沼田市は湿原保護を一番の重点を置き、木道の撤去、再整備を行ったのだが、この決定に至るまで、市はペンション経営者などの関係団体との話し合いを何度も設けた。既に観光地として確立されていた玉原とって、湿原の中央を通る木道は必要不可欠な要素だったのである。しかし、市は「玉原湿原を長く残していくためには、木道の撤去は最重要課題である」として、関係者に理解を求めていった。
 ハイイヌツゲは平成10年以前から群生がみられ、問題視されていた(玉原湿原対策委員会 1992)。平成10年度の玉原植生図と今回の分布域を比べると、ハイイヌツゲは湿原において、減少傾向にあった[図4]。これは、沼田市が、旧木道を撤去し、湿原の水位の調節をこころみるなど乾燥化の進行を食い止める対策を行った結果であろう。しかし、ハイイヌツゲは、乾燥している周辺の木道沿いにその植生範囲を移行していた。今後はこの木道沿いのハイイヌツゲの除去に取り組んでいかなければならない。なお、沼田市は、ハイイヌツゲやヌマガヤの分布がこれ以上拡大しないよう、毎年、刈り取りを行っている。
 ヨシの分布は排水路の周辺で拡大拡大傾向にある。沼田市では、湿原の水位を上げ、乾性型のハイイヌツゲの分布拡大を阻止しようとしていたのだが、これが逆に、広い範囲にまで生育可能なヨシの優占を押し進める結果となったといえる。今後はハイイヌツゲ、ヨシの両種を目標とした対策を講じていかなくてはならない。
 ハイイヌツゲの侵入、ヌマガヤ・ヨシの拡大防止という問題が残っているものの、玉原湿原は回復の道をたどっているといえる。もし、沼田市が、木道の撤去などの対策に乗り出さなかったとしたら、どれほどの退行が進んでいたであろうか。湿原はより乾燥し、湿原植生がほとんどみられなくなっていたかもしれない。玉原は管理主体である沼田市が、その危険性に気づき、対策を講じたことで今の姿が保たれているわけである。

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