II-3. 自然環境への関わり方の3類型


 さて、「観光地としての自然」「作り上げる自然」を関わり合う自然として考えるとき、これらに関わる人々を三つに類型化できる。それは、「専門家型」「タブロー型」そして「タブロー脱却型」である。
一つは「専門家型」の人たちである。環境保護活動の根幹を支えている人々で、環境に対して危機を感じ、行動を起こしている人たちである。彼らの主張はその運動によって様々だが、根本は環境保護という思想に則っている。たとえば、里山保全活動をしている「宍塚の自然と歴史の会(茨城県)」は生物多様性を根拠とし、その正当性に科学的根拠を求めている。「専門家型」は「観光地としての自然」に対しては「お目当ての土地や、そこに生息する生物が、自然の仕組みにより独自の特徴を備えるにいたった経緯(進化)を知り、生存を維持している様子(生態)を観察して理解する楽しみ」として「自然研究」を行っている。レオポルドは「自然の営みに対する認識を促進させることこそ、レクリエーション施策のうちで、唯一の真に創造的な側面である」と指摘している(レオポルド 1997)。
 次は、地球の危機的状況は理解しているが、実際の自分の行動には何ら反映ができない人たちである。ゴミ分別などの行政政策には従うとしても、自ら環境に働きかける活動はしない。環境保護活動に踏み込むことをとどまっている人々である。日本における大多数はこのタイプであると思われる。  
 「時間の比較社会学」で真木は「そこにある景色は一つの絵画であり、自分が関わっていくものではないと考える、こうした特性が近代人にはある」という指摘をしている。真木はそのことを「ひとつの文明の内部からうがたれた窓の外の風景を、壁にかけられた多くの額縁の中のタブローのうちのひとつとして処理し、近代的自我の内部装飾として、一定の評価をあたえつつ無害化してしまうこと」と表現している(真木 1997)。これによると、視界の前の自然はただ観るものとなる。人々は自然をタブロー、つまりは絵画として捉えているというのである。環境問題に対する「無関心」と「憧憬」の矛盾を引き起こしている意識といえよう。これが、3類型の一つ「タブロー型」である。
 環境問題の解決に関わらず、緑を絵画化してしまう理由は、「面倒」といった心理が主だろう。また、環境保護活動の掲げる理念を理解しかねる部分もあるだろう。一般に「専門家型」が掲げる生物多様性や生態系の根拠は理解されずらい。たとえば、生物多様性の観点からは、帰化植物という海外から侵入した植物は駆除しなければならないという考えがある。一般に帰化植物は生命力や環境に対する耐性が強く、元からその土地に生えていた植物を駆逐してしまうおそれがあるという。しかし、一口に帰化植物といっても、見た目が綺麗であれば受け入れられ、どうして植物を駆除しなくてはならないのかという疑問を生じさせる。こうして、生物多様性という根拠は一般には理解されずらいものとなってしまう。このように種々の環境保護活動はその根拠が専門的であるため間口が狭く、そのため「タブロー型」をその位置に留めている可能性がある。
「タブロー型」は「観光としての自然」において様々な楽しみを享受している。一つに写真を撮影することで「成功記念品」を得ている。「対象は何であれ、こうした記念品は一種の証明書なのだ。その持ち主が間違いなくどこそこに行ったとか、成し遂げたという証拠なのである。」また、「新鮮な空気と風景の変化」を求めてもいる。どちらも、対象を消耗することなく、大量利用に耐える(レオポルド 1997)。
 最後に「タブロー脱却型」である。里山保全やビオトープなどを幅広く支えている人々で、科学的根拠よりも自分の意識の中にあるタブローの侵害を恐れている層である。自分の故郷や風景のアイデンティティに関わる部分を喪失したくないという強い意識があるようである。里山保全などの活動からビオトープ、ガーデニングなどの作業に至る広い場面において、この動機が「タブロー脱却型」の行動を引き起こしている。しかし、彼らは自分のタブローが侵害されてきたことに気付いただけであって「タブロー型」との差異はほとんどないわけである。たとえば里山は、絵画化していた里山が荒れ果てていくうちに、絵画としての機能も果たさなくなったことに住民が危機感を覚え、自然に立ち向かっていったのだと考えることができないだろうか。近代人がタブローとして評価していたものが失われる、そこに危機感を感じての行動なのではないだろうか。こう考えていくと、ガーデニングやビオトープにも同じ性質を垣間見ることが出来る。ガーデニングは、自分の住む家の近景に絵画足る自然が喪失したため、自ら自然を創出している作業ともいえるし、ビオトープなどはもっと大規模に喪失した在りし日の自然を復元しようとしている。
 また、「タブロー脱却型」は「観光としての自然」「作り上げる自然」に保護・管理の楽しみを見出したタイプともいえる。「一部の、自然に対する認識能力を持つ者が、しかるべき管理技術を駆使して味わえる楽しみである」とレオポルドも指摘している(レオポルド 1997)。従来、自然の管理の多くは行政が主体であったため、この楽しみが一般には理解されていなかったのである。

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