はじめに

 

生物多様性と生態系サービス

 地球上には、熱帯から極地、沿岸・海洋域から山岳地域まで、さまざまな生態系が存在し、これらの生態系に支えられ多様な生物が存在している。全世界の既知の総種数は約175万種で、このうち、哺乳類は約6,000種、鳥類は約9,000種、昆虫は約95万種、維管束植物は約27万種となっている。まだ知られていない生物も含めた地球上の総種数は3,000 万種とも推定される(環境省HP 2010)。
 生物多様性条約において、生物多様性とは、「すべての生物(陸上生態系、海洋その他の水界生態系、これらが複合した生態系その他生息又は生育の場のいかんを問わない。)の間の変異性をいうものとし、種内の多様性、種間の多様性及び生態系の多様性を含む。」と定義している(環境省自然環境局生物多様性センターHP)。生物多様性条約では、生態系の多様性、種の多様性、遺伝子の多様性という3つのレベルで多様性があるとしている。
 生態系の多様性とは、干潟、サンゴ礁、森林、湿原、河川など、いろいろなタイプの生態系がそれぞれの地域に形成されていることである。地球上には、熱帯から極地、沿岸・海洋域から山岳地域までさまざまな環境があり、生態系はそれぞれの地域の環境に応じて歴史的に形成されてきた。
 種の多様性とは、いろいろな動物・植物や菌類、バクテリアなどが生息・生育しているということで、世界では既知のものだけで約175万種が知られており、まだ知られていない生物も含めると地球上には3,000万種とも言われる生物が存在すると推定されている。また、日本は南北に長く複雑な地形を持ち、湿潤で豊富な降水量と四季の変化もあることから、既知のものだけで9万種以上、まだ知られていないものまで含めると30万種を超える生物が存在すると推定されている。
 遺伝子の多様性とは、同じ種であっても、個体や個体群の間に遺伝子レベルでは違いがあることである。例えば、アサリの貝殻やナミテントウの模様はさまざまであるが、これは遺伝子の違いによるものだ。メダカやサクラソウのように地域によって遺伝子集団が異なるものも知られている(環境省HP 2010)。
 国連ミレミアム生態系評価(MEA)によると、生態系サービスとは、大気の浄化、水源の涵養、土壌保持、自然災害の緩和、病害虫・疾病の抑制、CO2の吸収・固定、気候の安定、農水産物を含めた生態系の保持、さらには農林水産業・食品・工業製品の原材料やエコツーリズムの資源、そして景観的・審美的価値や宗教的・倫理的価値など、人間が自然界から享受しているさまざまな財やサービスのことをいう。「自然の恵み」あるいは「生命の恵み」と言い換えることもでき、供給サービス、調整サービス、文化サービス、そしてそれらの元となる基礎サービスの4つに整理される(MEA 2007)。生態系が機能し、これらのサービスが持続的に提供されるには、「生物多様性」が必要不可欠となる(日比・千葉 2010)。

 

生物多様性の危惧

 しかし、人間活動の急激な拡大によって、地域に固有な生物の生息・生育場所はつぎつぎと失われ、それとともに多くの種が絶滅の危機にさらされている。絶滅に至らないまでも残された個体群は限られ、種内の遺伝的変異が失われつつある種も少なくなく(鷲谷ら 2005)、生物多様性の喪失が急速に進行しているといえる。国際自然保護連合(IUCN)が2004年に発表したレッドリスト(絶滅の危険のある種のリスト)によると、現在の絶滅リスクは、両生類では現生種の3分の1弱、哺乳類ではほぼ4分の1である。霊長類では、すでに2分の1が絶滅危惧種となっている(鷲谷ら 2005)。さらに、2012 年に発表したレッドリストによると、評価対象とした脊椎動物約3万6千種、無脊椎動物約1万3千種、植物1万5千種などのうち30%以上が絶滅のおそれがあるとされている(環境省HP 2010)。しかし、ごく一部の種についてしか調査がおこなわれていないために、その危機の現状を十分に把握することができない(鷲谷 1999)。
 生物多様性の喪失によって、生態系サービスの質と量も低下している。MEAによれば、評価を行った24の生態系サービスの6割(15のサービス)、たとえば水質浄化機能や土壌保持機能、自然災害調整機能、美的価値機能などが過去50年の間に悪化している(日比・千葉 2010)。
 科学技術がいかに発展しようとも、生態系サービスを頼ることなしに人間が生活できるようになることは考えられない。生態系サービスには限界があり、その限界を無視した利用や開発は生態系を大きく損なうことになる(鷲谷 1999)。 日本における過去の最も大規模な自然破壊ともいえる足尾銅山(栃木県)の鉱毒と乱伐で失われた森林は、百数十億円という巨費を投じ、官民挙げての努力にもかかわらず、1世紀を経た今日でさえ十分な回復がみられない。影響を受けた地域の大部分には、未だに禿げ山の景観が広がっている(鷲谷 1999)。一度失われた生物多様性や健全性を再び取り戻すことはきわめて難しいことなのである。
急速に進みつつある生物多様性の衰退を、手遅れにならないうちにくい止めることができるか、その持続性を損ないつつある生態系をどれだけ適切に利用/管理することができるかが鍵となる(鷲谷 1999)。
このような生態系の危機に対し、日本では1993年12月に発効した「生物の多様性に関する条約(生物多様性条約)」及び2008年6月に施行された生物多様性条約基本法に基づく初めての国家戦略となる「生物多様性国家戦略2010」を2010年3月16日に閣議決定し、生物多様性の危機の原因について言及している。
 第1の危機は、開発や乱獲など人が引き起こす負の影響要因による生物多様性への影響のことであり、「オーバーユース」と称される。土地利用の変化は多くの生物にとって生息・生育環境の破壊と悪化をもたらした。これらの影響については、高度経済成長期やバブル経済期と比べると近年比較的少なくなっているが、影響は続いている。
 第2の危機は、第1の危機とは逆に、自然に対する人間の働きかけが縮小撤退することによる影響であり、「アンダーユース」と称される。生活様式・産業構造の変化、人口減少など社会経済の変化に伴い、里地里山などの環境の質は変化し、種の減少ないし生息・生育状況の変化が生じた。これらの問題に対しては、現在の社会経済状況の下で、対象地域の自然的・社会的特性に応じた、より効果的な保全・管理の仕組み作りを進めていく必要がある。既に各地で取組は始まっているが、個々の地域における点的な取組にとどまっており、画一的・全国的な取り組みまでには至っていない。
 第3の危機は、外来種や化学物質など、人間が近代的な生活を送るようになったことにより持ち込まれたものによる危機である。野生生物の本来の移動能力を超えて、人為によって意図的・非意図的に国内に他の地域から導入された外来種が、地域固有の生物相や生態系に対する大きな脅威となっている。人間による選択や環境による選択を経て野生化している外来種は、競争力や繁殖力において在来種よりも強く侵略的になり、種の画一化や在来植物種の減少、あるいは絶滅を脅かす恐れがある(環境省HP 2012)。
さらに2012年に策定された「生物多様性国家戦略 2012-2020」では、生物多様性条約第 10 回締約国会議(COP10)において採択された愛知目標 の達成に向け、生物多様性の危機として、地球温暖化や海洋酸性化といった「地球環境の変化による危機」を第4の危機として位置づけた。
 IPCC第二作業部会による第四次評価報告書(2007)によると、地球温暖化が進むことにより、地球上の多くの動植物の絶滅のリスクが高まる可能性が高いと予測されており、これまで評価された植物及び、動物種の約20~30%は、全体平均気温の上昇が1.5~2.5℃を越えた場合、増加する絶滅リスクに直面する可能性が高いとされている。温度上昇は植物の光合成生産活動、ひいては植物の生長と生存・繁殖に直接的な影響を及ぼし、大地に根を張り暮らす植物にとって移動は簡単ではない。日本においても、生物の分布や植物の開花、結実の時期など生物季節に変化が生じると考えられる。したがって温暖化によって多くの植物の衰退・絶滅、そしてこれに起因する動物の衰退・絶滅が引き起こされる可能性が高いということである。そこで、まず温暖化が地域生態系の基盤である植物の多様性に及ぼす影響を解明し、正確に評価する必要がある(大政 2003)。

 

里山とは

 近年、里山(里地を含む)が「人と自然の共生地」として世界的に注目を集めており、生物多様性・生態系保全上の研究対象となっている。国際的には「SATOYAMA」という表記で用いられている。
里山は、集落を取り巻く二次林と人工林、農地、ため池、草原などを構成要素としており、モザイク状の土地利用が機能的に結びつき複合的なランドスケープ(景観)を形成してきた場所である。こうした里山ランドスケープは、土砂崩れなどの災害の防止、水資源の枯渇や土壌劣化の防止、自然資源の持続的な提供、農作物の花粉媒介、野生生物の生息場所の提供、郷土意識・文化の醸成など、多様な生態系サービスを提供しており、長期間にわたって人と自然の共生関係が維持されてきた場所である(渡辺 2010)。
 里山にみられる高い生物多様性と持続性は、伝統的な農業・人による管理によって保たれてきた部分が大きい。里山は雑木林や草地、それらに囲まれた谷津田などからなる農村の環境で、集落の近くには畑もある。そこで暮らす人々は雑木林で薪を伐り、落葉をかき、牛馬の飼料となる下草を刈り取り、落葉を堆肥にし、牛馬に踏ませた草を厩肥にし、薪を燃やしてできた灰までも肥料にして田畑を維持してきた。つまり、里山にあるこれらの環境はお互いにつながり合って、一つの物質循環系をつくってきたといえる(守山 2003)。

 

里山の生物多様性

 生物多様性の保全については、わが国における保護上重要な植物種および群落に関する研究委員会種分科会(1989)によって植物のレッドデータブックが刊行され、里山に生育する植物の中にも絶滅危惧種が多いことが明らかになったことから、里山が生物多様性の保全に対して大きな役割を果たしていることが認識されるようになった(武内 2001)。
 里山の植物の多様性は、里地の地形の複雑さや、そこで行われた人為的作業によって異なる。一般に、谷津田や急斜面などのいろいろな地形を含むほど多様な植物が生育できる環境が保証される(中静 2003)。例えばニホンノウサギは林の中をすみかとしているが、餌場は田圃のカエルやため池の土手や台地上の畑などである。ニホンイシガメも里山地域の複数の異なった自然環境を行き来しながら生きている。このように里山の生物には、2つ以上の違った環境がなければ繁殖できない種が多い。生物に限らず農業にしても田圃・水路・ため池・二次林はそれぞれの役割があり、1つ欠けても成り立たなかった(犬井 2002)。
また、一定期間ごとの伐採や下刈りなどは樹木にとっては多様性をなくす場合もあるが、適度な管理はアズマネザサやネザサのような特定の林床植物の繁茂を妨げるので、林床植物の多様性を増やすことになるようだ。したがって、里山の植物を保全するためには、できるだけ多様な生育環境を残して適度な管理を行うことが必要となる(中静 2003)。
 現在の里山に、薪や炭、落ち葉堆肥などを利用していた時期と同じだけの生産的価値は期待できない。ところが、木炭を単なる燃料としてではなく、木炭が持つ多孔質という特性に注目すると、環境ホルモンなど化学物質の吸着や水質浄化に利用が見込まれる。最近の研究では、カーボン繊維やウッドセラミックスの製造方法が開発され、その利用範囲は広がりつつある(坂口 2003)。このような新しい研究開発によって、里山の動植物からは次々と驚くような資源の利用方法が見いだされつつある。また、世界的な森林資源の枯渇に、石油危機の不安、さらに石油のような化石燃料の消費が、地球温暖化の原因になるものとして、今後その使用規制が避けられない状況にある。その意味で、里山の森林は再生産と持続的な利用が可能な資源として、広葉樹材の国内自給や燃料の安全保障の役割を果たすものとして、重要な潜在能力を秘めている(重松 2000)。

 

里山の衰退

 1960年代の高度経済成長以来、里山の多くは衰退の一途をたどることになる。化学肥料、燃料革命、農薬、圃場整備、そして開発といった様々な近代化の波が次々に押し寄せ、里山の持続性の高い生態系とその管理の体系が崩壊した。それに伴って生物多様性も衰退し、多くの身近な生き物が絶滅危惧生物となった(鷲谷 1999)。秋の七草として知られているフジバカマや、サクラソウ、ミゾコウジュ、タコノアシなどは、かつては各地の河川敷や平野部の湿った草地でよくみられたようだが、河川改修や宅地開発などの犠牲となり、今や絶滅寸前だという(石井 2000)。
  管理の放棄だけでなく、開発によっても里山は崩壊した。筑波研究学園都市、成田の東京新国際空港、多摩ニュータウン、筑波科学万博会場など国家的規模の大型プロジェクト事業はいずれも平地林の多かったところに建設されている。1960年代中頃(昭和40年代)以降にブームとなった北関東のゴルフ場も、大部分は里山の機能を失った平地林の転用によるものである(犬井 2002)。
地域の自然と調和し地方色豊かであった農村景観が、区画整備による市街地化、圃場整備など農業の近代化をめざす改変などによって画一的な面白みのない景観へと変えられつつある。そこに存在しうる生態系も限られたものとなり、生息できる動物、生育できる植物も限られてくる。雑木林、ため池、茅場など多様な生育場所を含む伝統的な里山をはじめとする農村景観の喪失は、現在ではわが国における生物多様性衰退の最も大きな表れの一つともいえる(鷲谷 1999)。実際、服部(2011)の調査によれば、里山林の放置が照葉樹、ネザサなどの繁茂を促し、それらの繁茂が種多様性の低下を生じさせているという。

 いまや里山は、レッド種の約半数が生息する日本の主要な生物多様性ホットスポットとなっている(石井 2005)。生物多様性ホットスポットとは、「地球規模での生物多様性が高いにもかかわらず、破壊の危機に瀕している地域」のことであり、多数の固有植物種を有するがその70%以上が本来の生育地を喪失している地域を指す。ホットスポットの総面積は地球上の陸地面積のわずか2.3%だが、ここに全世界の50%の維管束植物種と42%の陸上脊椎動植物種が生存している(日比・千葉 2010)。

 

里山の変化

 里山や平地林のクヌギやコナラの二次林は、陽樹林の段階で、人間が手を加えつづけることによって、植生遷移を中断させる「偏向遷移」によって歴史的に維持されてきたものである(犬井 2002)。里山のクヌギやコナラの林は薪炭生産のために、萌芽更新によって15年~20年周期で伐採されてきた。このために、里山には今年伐ったところ、10年前に伐ったところ、15年前に伐ったところというように異なった環境がモザイク状に配置されていた。それが40年以上にもわたって伐採されることもなく放置されてきたので、どこも似たうっそうとした状態の林になってしまった(犬井 2002)という。このまま平地林の樹木が利用されず萌芽更新もなされない状況が続いていけば、やがて年老いた樹木ばかりになり、生物の多様性も保持できなくなってしまう(犬井 2002)。
さ らに、一昔前に比べるとニホンザルの分布が山から人の住む集落へと広がっているという現象が、全国各地でみられるようになり、それと並行してニホンザルによる農作物被害や生活環境の変化が問題となっている。その原因の一つに、ニホンザルが本来生息地としていた広葉樹林が戦後の拡大造林期に成長したスギやヒノキの針葉樹林に変わってしまったことが挙げられる。ある年齢以上に成長したスギやヒノキの林には、ニホンザルのエサとなる木の実や葉がほとんどないために、サルは別の場所に生活場所を移さなければならなかった(犬井 2002)。
 一方、多くのボランティアが里山管理を楽しんでいることからわかるように、里山と関わることは、新しい野外のレクリエーションとしての魅力をもっている。従来の公園緑地では管理者から提供された場においてレクリエーションを楽しむという形態であったが、里山ではレクリエーションの場をつくる活動自体が楽しい、新しいレクリエーションになっている(武内ら 2001)。最近では、温暖化や希少な野生動植物の減少など地球環境問題の深刻化に対する人々の認識の深まりとともに、かつて身近にあった里山の持つ恵みの大きさにも気づき、その保全の必要性が再認識され、各地で里山保全のための活動が展開されるようになってきた(坂口 2003)。

 

里山イニシアティブ

 2010年10月には、愛知県名古屋市の名古屋国際会議場において、COP10(生物多様性条約第10回締約国会議)が開催された。この会議を契機に日本は「SATOYAMAイニシアティブ」と呼ばれる生物多様性保全政策を実施していくことになった。このイニシアティブでは、生物多様性の悪化傾向を止め、回復の方向に転換し、生物多様性の恵みを将来にわたって人類が受け取ることができるようにするためには、原生的な自然の保全強化に加えて、長年にわたる人の暮らしや営みとのかかわりのなかで形成されてきた、都市や農山漁村を取り巻く広大な二次的な自然地域を対象として、人と自然の調和的な関係を再構築することが不可欠という考え方に基づいている。そして、「生物多様性の保全」と「持続可能な利用」というふたつの目的を同時に達成するための土地や自然資源の利用・管理のあり方を考え、世界各地域での実践を促進していくことを目指している(渡辺 2010)。日本の里山ランドスケープを他の地域に押し付けるものではなく、各地域の特徴を尊重しながら、国内外の自然共生の知恵や事例、課題を調査、収集、共有し、それらをふまえて、持続可能な自然資源の利用・管理を実現する。そして、各地域の実情に応じて効果的に適用するための手順や方法を、多くの国々や多様なセクターの参加のもとに検討し、世界各地域での実践を推進していくものである。
 SATOYAMAイニシアティブの長期目標は、生物多様性が適切に保たれ、生態系サービスを将来にわたって安定的に享受できるような自然共生社会の実現である。

 この政策実現のためには、里山における生物多様性の現状の解明が必須であり、特に里山の生物多様性が高い理由の学術的解明、および絶滅危惧種・希少種の増殖方法の確立が急がれる。

 

水辺の環境

 水辺は、絶滅危惧種が集中する環境のひとつである。里山は、山林だけでなくそのなかに点在するため池や草地、そしてそれに連なる水田や畑、小川(水路)などを含めたいくつかの環境から成り立っている。それぞれの環境に特有の生き物たちが生息しており、里山の生物相を豊かなものにしているが、複数の環境を利用して生活を成り立たせている昆虫などもいる。したがって、これらのさまざまな環境が連続してひとつのセットとして存在することが、多様な生物相を支えるうえでは不可欠である(角野 2005)。
 伝統的な技術にのっとって稲作が行われる水田は、湿原の機能がある程度残されており、生物多様性を支える重要な役割を果たしている。水田には魚、エビ、カエル、水鳥、トンボなど目につきやすい水辺・湿地の動物のほか、目立たないが水田生態系において重要な機能的役割を果たす多様な節足動物が生活している。また、在来の水田雑草は、本来は湿地や水辺の水草である。そのような生物相豊かな水田は、湿地としての生態系の機能を十分に残した水田であるといえる(鷲谷 1999)。また、休耕田や放棄田に水をためて維持管理を行うと、姿を消していたさまざまな植物が芽生えていることがある。しかし、このような水田も湛水をやめて放置すると遷移の進行によって植物相は単純になる。水分条件によってヨシが優占する群落やススキやセイタカアワダチソウが優占する群落になってしまう(角野 2005)。
近代化が徹底するまでの農業生態系は、自然と人間の共生の場としての特徴を兼ね備えていた。しかし、ここ数十年の農業の近代化によって状況は激変し、かつては里山や水田で普通にみられていた動物のなかには衰退して絶滅危惧種となったものも少なくない(鷲谷ら 2005)。
 毎年繰り返される水路を管理する作業は、谷津田で米作りをする農家の人々にとってはかなりの重労働である。そのため、泥の水路をコンクリート製のU字溝にしたり、補助金を受けて三面コンクリート張りの水路に変えてしまったりしたところが多い(犬井 2002)。コンクリート化された水路では、産卵場所や休憩所となる植物が生えることができなくなってしまうので、メダカなどの魚は生息できない。水底が泥でできていないために、ドジョウ類やマツカサガイのような二枚貝も生息できなくなってしまう。その結果、マツカサガイに卵を産むタナゴ類も生息できなくなってしまう(犬井 2002)。また、垂直に切り立ったコンクリート製の水路と畦との高さがありすぎて、水路に落ちたカエルやカメなどが上がれなくなってしまう。泥の水路だったら側壁に草が生えていたので、たとえ水路に落ちても、草にしがみついてはい上がれるため、水田からため池、ヤマへと自由に移動できた。直線的で流れが速くなったコンクリートの水路でも、吸盤のようにくっつくことができるカワニナは生息することができたが、それも圃場で農薬が撒布されると生きていくことができない(犬井 2002)。

 

生物多様性条約

 1980年代の熱帯林の急激な減少や生物種の絶滅への危機感が背景となって、1992年にブラジルのリオデジャネイロで開かれた国連環境開発会議(地球サミット)に合わせ、「気候変動に関する国際連合枠組条約」(気候変動枠組条約)とともに「生物の多様性に関する条約」(生物多様性条約)が採択された。生物多様性条約は、人間活動の影響を生物多様性の維持可能な範囲内にとどめ、生態系要素の不可逆的な喪失の防止を目指し(鷲谷ら 2005)、特定の貴重種や生態系だけでなく、地球全体を対象として、生態系、生物種、遺伝子の3つレベルから、多様な生物とその恵みを国際社会が協力して将来の世代に引き継ぐための国際枠組として設けられたものである。条約の3つの目的は、①生物多様性の保全、②生物多様性の構成要素の持続可能な利用、③遺伝資源の利用から生ずる利益の公正で衡平な配分、である。2010年2月現在、条約の締約国数は193カ国、米国は条約の3つ目の目的が自国の産業に与える影響を懸念して条約をまだ締結していない(渡辺 2010)。

 

レッドリストとレッドデータブック


 国際自然保護連合(IUCN)の働きかけにより、世界各国で「絶滅のおそれのある生物のリスト」の作成が行われ、継続的調査研究によって毎年改訂されている(IUCN HP参照)。このリストは「レッドリスト」と称され、レッドリストに掲載された生物の分類・生態学的特徴と絶滅危険度の現状を取りまとめた刊行物は「レッドデータブック」と称されている(矢原 2003)。レッドデータブックの語源は、緊急性をアピールするため、表紙を赤にしたことによる。IUCNが発表している国際基準では、絶滅危惧と定義される状態をCR(critically endangered)、EN(endangered)、VU(vulnerable)の3つのクラスに分類する。環境省では、これら3つのカテゴリーに対して、絶滅危惧ⅠA類、絶滅危惧ⅠB類、絶滅危惧Ⅱ類という用語を用いている。このほか、すでに絶滅した生物には、EX(extinct、絶滅)、EW(extinct in the wild、野生絶滅、動物園や植物園で残っている状態)というカテゴリーが使われる。また、近い将来絶滅危惧の基準を満たすと予測される生物には、NT(near threatened、準絶滅危惧)というカテゴリーが使われる。準絶滅危惧にも該当しない生物は、LC(least concern、環境省では対応するクラスを設けていない)とされる。また、情報が乏しくて、いずれのカテゴリーに該当するかを評価できない場合には、DD(data deficient、情報不足)とされる(矢原 2003)。
 日本初のレッドデータブックは、1989年に日本自然保護協会、世界自然保護基金ジャパンから発行された、「我が国における保護上重要な植物種の現状(レッドデータブック植物種版)」である。その後1992年に「絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律(種の保存法)」が成立し、環境省が脊椎動物、無脊椎動物、維管束植物、その他の植物についてレッドデータブックを発行、水産庁が「日本の希少な野生水生生物に関するデータブック」を発行している。1994年から更に詳細な調査が行われ、1997年にレッドリストが改訂され、それを訂正する形で2000年には環境省版の新しい植物レッドデータブック「改訂・日本の絶滅のおそれのある野生生物-レッドデータブック 植物Ⅰ(維管束植物)」が出版された(矢原 2003)。
 2002年からレッドリストの2回目の見直し作業に着手し、生息状況や生育環境の変化等の最新の知見に基づいて検討を行い、2007年にレッドデータブックの改訂版が発行された。また、2008年より3度目の見直し作業が行われ、2012年に新たなレッドリストが公表された。新リストでは419種の動植物が新たに加えられ、日本の野生生物が置かれている状況が依然として厳しいことが明らかになった(環境省HP 2012)。
レッドリストやレッドデータブックは、北海道から沖縄県まで24の都道府県が作成しており、それぞれ独自の基準を設けた地域の動植物の絶滅の度合いの評価をしている。
 群馬県では、県内の絶滅のおそれのある野生植物の一覧(群馬県の植物レッドリスト)をまとめ、2000年2月に公表した。また、レッドリスト掲載の個々の種について、特徴や評価の理由、分布状況等の情報を加えた「群馬の絶滅の恐れのある野生生物(植物編)」(群馬県レッドデータブック植物編)を作成し、2001年1月に発行した。さらに、その後の変化への対応や、より現状に即した内容に見直すため、2008年に改訂準備に着手し、初めての改訂を行った(群馬県HP 2012)。
 2012年の改訂版では、633植物種を評価対象として掲載した。このうち274種は前回(2001年版群馬県レッドデータブック植物編)は掲載されていなかったが、今回新たに掲載された種である。内訳をみると、274種のうち161種は絶滅危惧IA類とIB類で58.8%を占めた。これは、前回も掲載されていた359種のうち今回絶滅危惧IA類とIB類が占めた割合(52.9%)を上回る結果となった。この中には、環境省のレッドデータブックやレッドリストに掲載されている種が過去10年の間に県内で新たに発見されたものや、全国的に減少傾向が著しく環境省でも2007年版のレッドリストで新たに掲載したものが多数含まれており、絶滅リスクが高いランクに集中する結果となった。
 今回、絶滅または野生絶滅と評価した55種のうち23種は、前回は絶滅以外の評価とされた種か、絶滅危惧種として認識されず掲載されていなかった種である。なお、前回絶滅と評価した55種のうち17種は、その後現存することが確認されたため今回は他の評価となった。また、5種が対象外となったのは、雑種や品種、逸出種として評価対象から除外したためである。

 今回の評価対象633種のうち、絶滅危惧IA類が217種と最多であった。この理由として、本県の植物相がもともと地域間の差異が大きく分布地点の限られる希少種が多いことに加え、従来からの開発行為による生育地消失のほか、近年は農地や里山の管理放棄、動物による食害、外来種との競合など様々な要因によって生育環境が悪化し、深刻な状況に追いやられているためと考えられる(群馬県 2012)。

 

本研究の目的

 本研究では里山の植物種多様性がどうやって形成されるのかを、生育環境の多様性と植物の分布および種子生産・発芽・成長特性の多様性の関係を考察することによって解明する。里山は人間の手が常に加わっている地域である点で、いわゆる原生の自然とは全く異なる状況下にある。したがって、このような生物多様性の高さを解明するためには、これまでの生態学・環境科学的な学術研究の成果を踏まえた上で、「人間と自然との共生関係」という、新たな視点での研究を要することになる(高橋 2009)。
 群馬県では、県内各地において多様な立地条件が形成されており、それぞれの立地ごとに異なる種構成で、多くの在来種が生育しており、良好な里地・里山環境が存続している。このため、群馬県内において長期間里山環境として維持されている地域である西榛名地域(東吾妻町、高崎市)、太田市、館林市、板倉ウエットランド地域、および隣接する栃木県南部において植物相調査、環境調査を行うことによって、植物多様性の現状を把握し、里山環境における植物多様性がどのようにして形成されるのか、またどんな植物や生物が保全されているのか調査し、現状を評価した。また、これらの地域において     など代表的な出現植物(希少種)の発芽実験を行うことにより、生育環境の多様性と植物の発芽・生長特性の多様性の関係を解析する。
 以上の結果により、里山における絶滅危惧種・希少種を含む植物の多様性がどのようにして形成されるのかを解析し、考察する。
 なお保護上の理由により、本稿の一部を非公開とし、白紙としている。また盗掘防止の観点から、調査地の詳細な呼称の公表を控え、調査に用いているコードネームを使用し、正確な位置が特定されないように配慮した。
 本研究の一部(フジバカマに関する調査研究)は、都丸希美氏および浦野茜詩氏との共同研究である。このため本稿に記載された結果にビオトープに関するものがあるが、その詳細については都丸氏、浦野氏の卒業論文を参照されたい。

 


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