はじめに

地球上に生きる生物

地球上には、熱帯、温帯、極地、沿岸・海洋域や山岳地域など、多様な生態系が存在し、多種の生物が生存している。既知の総生物種数は約175 万種で、このうち、哺乳類は約6,000 種、鳥類は約9,000 種、昆虫は約95 万種、維管束植物は約27 万種となっており、未確認の生物も含めた地球上の総種数はおよそ500 万〜3,000 万種の間と推定されている(IUCN 2009)。

現存する生物種は、長い生物進化の過程の中で形成されてきた生物間の相互作用および変動する環境条件への適応の結果として、多くの種に分化して生き残ってきたものである。また生物種はその活動の結果として、大気や土壌などの環境条件自体を変化させてきた。現在の大気中の酸素はすべて、局所的な水蒸気の循環システムは植物がつくりあげたものであるし、動物は植物の花粉媒介者や種子の散布者として、あるいは土壌の形成の一端を担う形で共に進化をとげてきた。こうした生物種、生物間の相互作用および変動する環境条件の3つの要素が複雑なシステムを構成したものが生態系であり、人類を含むすべての生物が生きるために利用する資源や生育条件は、この生態系の内にある。すなわち、生態系およびこれらを構成する多様な生物種の存在が、人類の生存の基盤であるといえる。

生物種が多様であることを「生物多様性」と呼ぶ。生物多様性は、「生態系の多様性」「種の多様性」「遺伝子の多様性」の3つの階層で構成されている。

まず1つ目の「生態系の多様性」は、地球上に自然林や里山林・人工林などの森林、湿原、河川、サンゴ礁などのさまざまな環境が存在することである。すべての生物はこれらの多様な環境に適応することで多様に分化してきたことから、生態系の多様性は「種の多様性」の源であるといえる。

2つ目の「種の多様性」は、科学的に解明されている生物種は約175万種、未知のものも含めると3000万種いるとも言われる膨大な数の生物種の存在を指す。

3つ目の「遺伝子の多様性」は、様々な環境に対応するためには、乾燥に強い個体、暑さに強い個体、病気に強い個体など、さまざまな個性をもつ個体が存在し、また同じ種であっても個体間で、生息する地域で体の形や行動などの特徴に少しずつある違いのことを指す(COP10 HP  2009)。

このような生物多様性によって駆動している生態系の諸機能を、近年では「生態系サービス」と称することもある。古くから「自然の恵み」と呼ばれて人類が享受し続けてきたものであるが、特に環境保全の経済的価値の膨大さを認識してもらうために、あえて定義されたものである。

人間が生態系から受ける恩恵である生態系サービスは、食料、水、材木、繊維、遺伝子資源などの「資源供給サービス」、気候、洪水、水質あるいは病気の制御といった「調整的サービス」、レクリエーション、美的な楽しみ、精神的な充足などの「文化的サービス」、そしてそれら全体を支える基盤的な機能ともいえる土壌形成、受粉、水循環、栄養循環などの「維持的サービス」に分けることが出来る。生物多様性はこれら生態系サービスを生み出す生態系機能の担い手であり、多様なサービス全般にかかわる生態系の健全性の指標である(鷲谷 2007)。

生物多様性の危機

2002年に策定された新・生物多様性国家戦略では、日本の生物多様性の危機について、何が生物多様性を脅かし、人と自然の共生を困難にしているのかを明確にするために、3つの危機に言及したことが特徴といえる。

第一の危機は、「開発や乱獲などによる種の絶滅や減少、生息・生育地の減少」である。これは人間活動の強い影響の元、種が絶滅の危機にさらされることで、豊かな自然が失われるということである。これは以前からの危機であり、近年一層深刻化している危機である。

第二の危機は、「人間の生活スタイルの変化に伴う里地・里山生態系の質の変化」である。これは里山などの、自然環境と人為的な干渉の2つのバランスで成り立っていた環境において、人間の生活スタイルの変化からこれまで資源として使われていた物が放棄されるなどの人為的干渉が減る、アンダーユース(利用不足)の状態になることでそのバランスが崩れることで環境が維持されなくなることである(松田 2009、江崎・田中  1998)。

第三の危機は「外来種による生態系の混乱」である。これは外来種など人為的に持ち込まれたものによって、地域固有の生態系が攪乱されることである(環境省編 2008)。

近年、生物多様性を支える野生生物の種の絶滅が、過去の「5大絶滅」を遥かに超える速度で進行している。国際自然保護連合(IUCN)の「絶滅のおそれのある種のレッドリスト」2006年版では、1600年以降に絶滅した動植物種数は784種と発表されたが、2009年版では種数が91種増え、875種となった。また絶滅のおそれのある絶滅危惧種は、1996年の5328種に対して2006年には1万6118種、2009年にはさらに増えて1万7291種となった。

絶滅危惧種はCR: 絶滅危惧?A(深刻な危機)、EN: 絶滅危惧?B(危機)、VU:絶滅危惧?類(危急)、NT:準絶滅危惧(VUに移行が考えられるもの)の四段階に分けられる。

レッドリストのカテゴリー分類としてもっとも危険なCRは、ごく近い将来における野生での絶滅の危険性が極めて高いもの、ENは?A類ほどではないが、近い将来における野生での絶滅の危険性が高いもの、VUは絶滅の危険が増大していて、現在の状態をもたらした圧迫要因が引き続いて作用する場合、近い将来「絶滅危惧?類」のランクに移行することが確実と考えられるもの、NTは現時点では絶滅危険度は小さいが、生息条件の変化によっては「絶滅危惧」に移行する可能性のあるものとされている(IUCN レッドリスト2006・2009 松原2006)。

このように歴史上空前のスピードで生物種が絶滅に瀕しつつある現在、生物多様性によって機能している生態系もまた、衰退しつつあるといえる。そして生態系の衰退は、生態系サービスの劣化に直結して、我々人類の生活基盤の崩壊や自然と文化の相互作用の歴史の断絶を生みだしている(鷲谷 2003)。

生物多様性の保全政策

危機に直面している生物多様性を包括的に保全するための国際的な枠組みとして、1992年に開催された国連環境開発会議(地球サミット)において、気候変動枠組み条約とともに生物多様性条約が採択された。この条約は、ワシントン条約(希少な生物種の国際取引を規定)やラムサール条約(湿地の生物種の保護)を補完するものであり、生物多様性を「生態系の多様性」「種の多様性」「遺伝子的多様性」の3つの階層で捉え、生物多様性の保全とその持続可能な利用、生物の遺伝子資源から得られる利益の公正な配分などを目的に掲げている。すなわち生物の絶滅と生態系の喪失を防ぎ、「自然の恵み」を持続的に利用できるようにするための条約である。

日本では生物多様性条約に基づいて、1995年に生物多様性国家戦略が策定された。条約の発行から二年という早期に策定し、生物多様性というキーワードを国の政策の中に位置づけたいという積極的な面もあったが、各省庁がすでに実施している政策を集めたものという性格が強く、鋭い現状分析に基づいた実効性の高い戦略にはなりきっていなかった。その後の社会経済の変化や自然環境の現状をふまえて全面改定され、2002年に新・生物多様性国家戦略が策定された。この改定に先立ち、各省庁だけでなく自然保護団体や関連する分野の研究者も参加し、一年余りの時間をかけて現状分析や具体的な方策が検討された (鷲谷 2003)。

そして2007年11月には、さらに「第三次生物多様性国家戦略」が閣議決定された。この第三次国家戦略は、具体的な取り組みについて、目標や指標などもなるべく盛りこむ形で行動計画都市、実行に向けた筋道が分かりやすくなるよう努めたこと、沿岸・海洋域など各省が関係する取り組みについて、まとめて記載するよう努めたこと、また生物多様性から見た国土の望ましい姿のイメージを、過去100 年の間に破壊してきた国土の生態系を、100年をかけて回復するという「100年計画」といった考え方に基づくエコロジカルな国土管理の長期的な目標像を示すとともに、地球規模の生物多様性との関係について記述を強めたこと、地方公共団体、企業、NGO、国民の参画の促進について記述したことなどが大きな特徴である(環境省編 2008)。これらを踏まえた上で、今後5年程度の間に取り組むべき施策の方向性を「生物多様性を社会に浸透させる」「地域における人と自然の関係を再構築する」「森・里・川・海のつながりを確保する」「地球規模の視点を持って行動する」の、4項目が「基本戦略」としてまとめられた。

また、この第三次国家戦略において、1995年に策定された生物多様性国家戦略の3つの危機に、多くの種の絶滅や生態系の崩壊が懸念される「地球温暖化による危機」という4つ目の危機が追加された(環境省編 2008)。

日本における水辺の環境

元来、由来の異なるいくつもの地塊がユーラシア大陸の東端に集合し、その後、日本海を形成しながら大陸から離れて出来あがった日本列島は、概して温暖で降水量に恵まれていること、変化に富んだ気候、活発な地形形成作用といった特色を有し、これらが日本列島の自然を活力に満ちた多様性の高いものとしているといえる(鷲谷 2003)。具体的には、わが国の既知の生物種数は9万種以上、分類されていないものも含めると30 万種を超えると推定されており、約3,800 万ha という狭い国土面積(陸域)にもかかわらず、豊かな生物相を有している。また、固有種の比率が高いことも特徴で、陸棲哺乳類、維管束植物の約4割、爬虫類の約6割、両生類の約8割が固有種である。先進国で唯一野生のサルが生息していることをはじめ、クマやシカなど数多くの中・大型野生動物が生息する豊かな自然環境を有している。このような生物相の特徴は、国土が南北に長さ約3,000km にわたって位置し、季節風の影響によるはっきりした四季の変化、海岸から山岳までの標高差や数千の島を有する国土、大陸との接続・分断という地史的過程などに由来するほか、火山の噴火や急峻な河川の氾濫、台風などさまざまな攪乱によって、多様な生息・生育環境がつくりだされてきたことによるものとされている(環境省編 2008)

しかし第二次世界大戦後、経済を復興させるために、日本政府は貿易の振興と国土の効率的利用を優先的に急速に進めた。まず1955年の国土総合開発法によって、電源開発や多目的利用のダム建設を行ったが、これが自然破壊の始まりであった。1962年の全国総合開発計画や1972年の日本列島改造論によって、各地で重化学工業などのコンビナートが建設された。その結果、経済は高度成長を達成したが、自然破壊はますます広がり、公害が各地で発生した。経済発展や人口増加とともに都市域が拡大することは、世界各国に見られる共通の現象である。日本でも、1960年代に全国の都市で人口の集中が始まり、大気汚染、河川や内湾の水質汚濁、宅地開発などによって都市の自然が消滅していった。また、都市域が拡大するとともに、都市周辺の里地、農耕地、樹林地、海岸などの緑被地が少しずつ減少し、郊外の自然も破壊されていった(松原 2006)。

地形が急峻で多雨気候にある日本列島は、いたるところに水辺がある。特に初夏から秋にかけて雨量が多いため、水はけのよい場所には森林が発達する一方で、水はけの悪い場所は池沼や湿地になる。そのため人間による土地利用がなされる前には、山地、低地を問わず水辺と樹林が組み合わされた環境が見られた(鷲谷 2006)。日本は、こうした水辺や樹林の環境を利用しながら長い間生きてきたため、河川およびその周辺に自然環境と人間の生活環境が集中して存在している。すなわち、日本において生物多様性と人間活動の相互作用が最も顕著に現れる場が、水辺なのである。

しかしこれまでに日本の河川の多くでは、護岸工事が施され、河川水の汚濁も進んでいる。最近、ようやく水辺の環境保全の重要性が認識されるようになり、1997年に改正された河川法では従来の「治水」「利水」に加えて「環境の整備と保全」が河川管理の目的に盛りこまれた。また、河川の改修に「多自然型河川工法」も取り入れられるようになった。これは自然環境を重視して、水流に緩急をつけることで水の自浄能力を高め、水性昆虫や魚が生息しやすいような工法である。この工法などにより、種の多様性が確保できる程度での河川環境の保全や復元、河川の上下流・横断方向などの連続性のある環境確保などを目標とし、生物の良好な生育・生息環境をできるだけ改変しないようにしつつも、治水上の安全性を確保するとしている(松原 2006)。

2007年に策定された第三次国家戦略では、「水は生命の源であり、水系は森や里と海をつなぐ生態系ネットワークの軸をなすもの」とされ、河川、湖沼、湿原、湧水、ため池、水路、水田などを途切れなく結ぶ生きものが行き来できるネットワークの形成を進め、また、湛水期間を長くした水田や、昔は広大な面積であった氾濫原を含む河川などは多様な生きもののよりどころとして重要であることが盛り込まれた。こうした水域の生態系の保全を進めるとともに、耕作放棄地や休耕田を活用した湿地再生やビオトープづくりに努めるとされている(環境省編 2008)

また湿地などの水域は、生物多様性の面から見てもかけがえのないものをもつ。水と結びついた、他の生態系には見られない特殊な生物相、すなわち、水域から陸域への推移帯(エコトーン)を構成するため、その特異な環境から他にはみられない生物相を持ち、さまざまな野生生物の生息場所となっている。水辺林自体も多様な樹木群集から成り立つ場合が多く、低頻度出現種や希少種の生存も可能にしている。この結果、水辺域は、地域の生物多様性維持に大きく貢献しているのである(鷲谷 1999)。

日本の中においても群馬県は、特段に多様な立地条件を有している。気候は県北部の日本海型から、県南部の太平洋型まで多様である。また標高10数mの低地から2500mを超える高山まで変化に富んだ地形を有し、西部から北部にかけて上毛三山と呼ばれる妙義山・浅間山・赤城山がそびえる。水系では尾瀬や玉原湿原、覚満淵などの湿原や多くの湖沼・ため池、利根川や渡良瀬川などの河川に恵まれている、また県土の約3分の2を森林が占めている一方で、関東平野の北端である県南部は、豊富な水資源を活用して広大な水田・畑作地帯となっている。こうした群馬県の内包する多様な立地環境が、生物多様性の高い動植物が育まれてきた潜在的要因になっていると考えられている(大森 2008)。しかしながら、本県にもグローバル化の波は押し寄せ、開発や外来種、里山地域のアンダーユースによる生物、特に植物の絶滅という新型の環境問題がふりかかっている(高橋 2009)。水辺地域は群馬県内に多くあるが、もともと水辺の環境は壊れやすいものであるので、こうした新型の環境問題の影響を受けやすいと考えられる。

本研究の目的

本研究では、群馬県内および近接地域の水辺において、そこに生育している植物の多様性が近年どのように変化しているのかを解明することを目的とした。このため、絶滅危惧植物種や希少植物種が多く生育していることが過去に報告された水辺を複数選び、これらの地点における現在の植物相、絶滅危惧植物種や希少植物種の現在の生育状態・分布状況を現地調査によって明らかにした。具体的には、赤城山覚満淵(前橋市)、玉原湿原(沼田市)、(株)アドバンテスト・ビオトープ(明和町)、渡良瀬遊水池(板倉町)、行人沼(板倉町)、朝日野池(板倉町)、西榛名(東吾妻町)、石田川流域(太田市)、才川(栃木県佐野市)、茂林寺沼・多々良沼(館林市)の10地点で現地調査を行った。

 これらの調査地点のうち赤城山覚満淵、玉原湿原、(株)アドバンテスト・ビオトープの3地点は、管理形態の異なる水辺環境として、過去に新岡(2001)と大川(2005)が調査したことがある。そこでこれらの調査地を再び調査することによって、2004年から5年間で水辺の植物相、絶滅危惧植物種や希少植物種の生育状態がどのように変わったのかを明らかにした。

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