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国際共同研究

スロベニア・リュブリャーナ大学と群馬大学の国際交流

荒木 詳二

オーストリアとオーストラリアが紛らわしいように,スロベニアもしばしばスロバキアと間違えられるちょっとかわいそうな国である。主にスロバキア人の住むスロバキア共和国は人口約540万人で首都はブラチスラバ,言語はスロバキア語だが,主にスロベニア人の住むスロベニア共和国は人口約200万で,首都はリュブリャーナ,言語はスロベニア語である。スロベニア共和国の誕生は1991年であるのに対し,スロバキア共和国の建国は1993年と2年遅い。ご承知の通り,スロバキア共和国がチェコスロバキア共和国から分離独立したのに対し,スロベニア共和国はユーゴ連邦から分離独立した。欧州連合加盟は共に2004年,来年2007年には,スロベニアはユーロ圏に入ることとなっている。筆者は2000年秋と2006年春に二度スロベニアを訪れ,2001年夏にスロバキアを訪れたが,リュブリャーナ城とブラチスラバ城から眺めた両国の首都の町並みの美しさは忘れがたい。

先日独文学者池内紀氏の『町角ものがたり』(白水社)を町の本屋で見かけたので,拾い読みしていたら,ちゃんとリュブリャーナが出でいたので驚いた。さすがに一人旅の達人である。「スロヴェニアの首都リュブリャーナは,とてもいい町だ。世界でもっともすてきな首都だろう。人口は二十七万。人間が暮らすのに,ちょうどいい。」 世界でもっともすてきな首都の中心にはリュブリャニツァ川がゆっくりと流れている。この川に架かるアール・ヌーボー風の「三本橋」(真ん中が車道,脇の二本が歩道)や市の紋章である龍が護る「龍の橋」も美しい町並みにふさわしい落ち着いたたたずまいだ。川岸のカフェで飲むカプチーノもいいが,川岸のレストランでビールを飲みながらつまむ鮴にも似た地元の魚や烏賊のフライもすこぶる美味である。でもなんといっても楽しいのが,「三本橋」と「龍の橋」の間の市場である。まず目につくのが,色彩の豊かさ。赤に黄色,青に紫の花々,さらに色鮮やかな蝋燭立てである。蝋燭立ては墓場に飾るとのことだ。蕎麦等のいろんな草花から採取した蜂蜜の種類も多い。名物の小麦菓子ポティチャの屋台も出ている。樽に山盛りした食材はザウアークラウト,酢漬けキャベツだ。ここが中欧文化圏であることに気づかされる。「三本橋」の方からは,限りなく澄んだ可憐なロシア民謡が流れてくる。

この静かで美しい町の唯一の大学であるリュブリャーナ大学の文学部とわれらが群馬大学社会情報学部が学術交流と学生交流を目的とした学部間協定を結んでから,そろそろ七年になる。ほぼ毎年二三人の留学生たちと,教員数名がリュブリャーナと前橋の間を行き来している。今回は両学部主催で「変わりゆく社会と文化-日本とスロベニアの視点から」という研究集会を開くということで,群馬大学社会情報学部から五人の教員を派遣することになった。開催期間は3月25日から3月29日,場所はリュブリャーナ大学文学部である。今回のわれわれの義務は,特別講義およびリュブリャーナ大学文学部アジア・アフリカ研究学科日本研究専攻3年生の授業参観・コメント・評価であった。

われわれ群馬大学スタッフが,リュブリャーナ大学教員・学生およびリュブリャーナ市民を前に行った特別授業は次の通りである。古代文化から現代文化へと流れを意識したラインナップである。

リュブリャーナでの研究集会

リュブリャーナ大学での研究集会の様子

個々の講義については,事前にスロベニア語によるレジュメが用意され,リュブリャーナ大学日本研究講座のベケシュ教授と重盛助教授に通訳として協力していただいた。日本留学の長かったベケッシュ先生と,旧ユーゴおよびスロベニア滞在の長い重盛先生の通訳は文字通り流れるようである。講義の後は質疑応答の時間が設けられた。時折鋭い質問がなされ,緊張感が漂った場面もあった。リュブリャーナ大学の若手中国研究者が,特別講義に関連して,現在の中国共産党一党独裁や情報操作を批判し,中国は社会民主主義を選択すべきだと滔々と自説を展開する場面等もあった。

授業参観には驚いた。日本研究の学部3年生が全員日本語でレジュメを作成し,流暢な日本語で発表したのだ。司会進行も学生がてきぱきとこなしていた。学生が選んだ発表テーマは以下の通り。

テーマを見ると,失業問題とか出生率とか環境問題とか日本とスロベニアの若者が共通の難問に直面していることがわかった。日本側の質問に即座に的確に答えられる学生は,さすがに少なかったものの,たった二年の勉強でこれほど日本語がうまくなるものかと日本側一同感心しきりであった。日本研究専攻学生は一学年50人定員,応募者は毎年60-70人程度で,卒業は3割程度とのこと。勉強しないまたは勉強ができない学生は転学科または退学という厳しさだ。群馬大に留学していたヤスミナさんに聞いたら,日本とスロベニアの中間ぐらいがいいのではという意見だった。また就職率は5割程度,日本語関係の就職はほぼ皆無だとか。日本と違って,当地の大学には就職予備校の雰囲気がほぼないようだ。

今回一番感激したのは,リュブリャーナ大学の徹底した日本風心配りであった。日本研究講座の先生方はもちろん,前橋に来て勉強したことのある留学生たちが,入れ替わり立ち替わり始めから最後まで通訳兼案内人として同行してくれた。その一人大学5年生のポロナさんは,映画『楢山節考』を見て受けた衝撃が,日本研究のきっかけであったそうだ。もっと勉強したいというのが彼女の目下の希望である。歌のうまいダーミアン君の話で面白かったのが,旧ユーゴ時代の話。共産主義の時代の労働者は,朝6時から昼2時まで働いて,その後は家族全員でゆっくりと散歩していたそうである。せかせかした資本主義社会の現在より,昔の方が良かったという学生も多いと聞いた。少年聖歌隊出身の彼とは,リュブリャーナ歌劇場前でシューベルトの「野バラ」を合唱した。もちろん観客なしで。国立美術館も彼の日本語解説付きで見て回った。彼は再度日本留学を希望している。

群馬大学から派遣された留学生も,リュブリャーナ大学の学問的雰囲気のなかで,よく勉強し,一年間という短期間ながら,数名はスロベニア語をほぼ完璧にマスターしたと聞いた。その一人の中島さんはリュブリヤナで元気に働いている。今回派遣されていた大山さんも勉学の意欲に溢れていた。われわれの国際交流は確実に実を結びつつあると思った。

最後に,日本全国にあるに違いないこうした心温まる国際交流の輪が広がることを願いつつ筆を置くこととする。

2006年春


Last Update 2015/06/09