山内春光

山内春光 (やまうち・はるみつ)教授

山内春光 教授
  • 出身地:新潟県
  • 最終学歴/学位:東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学/修士(文学)
  • 研究室:社会情報学部棟505
  • 所属学会:日本倫理学会,日本思想史学会,国際行動学会
  • 専門分野:倫理学・日本倫理思想史
  • 担当科目:日本思想の形成過程,日本の倫理思想,社会倫理Ⅰ・Ⅱなど
  • 個人ページ: http://www.si.gunma-u.ac.jp/~yamauchi/index.htm

現在の研究テーマ

  • 日本の神話や物語には,男女や善悪の問題にからんで何が表現されているのか
  • 夏目漱石がその作品世界の中で,一番言いたかったことは何だったのか
  • 小説やルポルタージュ類の中に,現代社会・地域社会の若者の生き方・考え方をさぐる

専攻分野・研究内容紹介

自信をもって

私が研究者の道に進むことになった一番大きなきっかけは、学部の3年生のときに、ゼミの指導教官だった相良亨先生からいただいた年賀状にあった、と思います。そこには、

  「貴兄は自信をもって進めばよい。

  私にはそう見えます。実り多い一年でありますように。」

と、書かれていました。私はこれに心から驚き、そしてうろたえました。というのはその頃、自分で自分を最低のダメ学生と思っていたからです。

当時は、1・2年が一般教養課程、3・4年が学部の専門課程と、はっきり分かれる制度になっていました。私はその教養課程を、大変にふまじめな学生として過ごし、学部進学のための平均合格スレスレという成績で通過していました。それでも何となく哲学っぽいことをやってみたいという思いだけはあって、倫理学科という所を選んで進学しましたが、哲学や倫理学の知識はほとんどなく、語学力も皆無でした。あれで倫理学科は無謀だったと、今思わなくもありませんが、では他にどんな選択があり得たかと考えても答えは浮かびません。

しかし、とにかくそんな自分に、相良先生は「自信をもって…」という言葉をかけて下さいました。こんな最低の自分のどこかに自信をもってよいような何かがあると、この先生は見て下さっているらしい、そう思ってあのとき、驚き、うろたえたのだと思います。

倫理学科に進んだ後も決してまじめな学生になれたわけではありませんでしたが、ただゼミだけは休まずに出席するようにしていました。その年の相良ゼミは、近松門左衛門の世話物・心中物をテキストにしていました。私は近松にも心中物にも何の知識もありませんでしたが、とにかく本文だけは読んで出て、先生と先輩達の空中戦のようなやりとりに耳を傾けるようにしていました。

そして秋も深まった頃に、私は「女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)」という不良青年による不可解な殺人事件を扱った作品の初回の当番になりました。相当な重圧を感じながら準備にかかりましたが、どうした偶然か(たぶん先生が会議か何かに引っぱられたためだったろうと思います)、その発表当番の授業が一度二度と休講・延期されることになりました。そのたびに重圧は増していきましたが、それでもそのつど本文を読み返し発表用のレジュメを書き直しました。(ちなみに当時はもちろんパソコン・ワープロなど存在せず、レポート用紙に手書きしていました。)ただそうしている内に、主人公の不良青年の心情にいくらかでも近づけたかと感じられるようになり、そして本番の発表に臨むことができました。今にして、それがよかったのかもしれないと思います。

自分にしかできない読み方を

ところでこれはその後、大学院に進んでからのことだったと思いますが、その相良先生が、「本を読むのに人と同じ読み方をしていたんじゃ、君がことあらためてその本を読む意味がないじゃないか、君でなければできないような読み方をしなくっちゃ…」と言われたことがありました。これにも私は驚きました。恐ろしいことを言う人だ、とも思いました。

ですがたしかに、何万回・何十万回と読まれてきたであろう古典を読むにあたって、常識以前の誤読をするのは論外としても、常識的ないわゆる普通の読み方をするだけでは、あらためて読み直す意味がないはずではありましょう。そのときの常識に捕われない、自分にしかできないような、もっと言えばその時点でのギリギリの自分にしかできないような、徹底的に読み抜くような読み方をしなければ、本当の意味で読んだことにはならないのでしょう。

ひょっとするとあの「女殺油地獄」の発表のとき、一瞬にせよごく部分的にもせよ、そういう読み方が私にもできていたのかもしれない、と思います。それを見て、あるいはその可能性を見て取って、相良先生はあのような年賀状を書いて下さったのかもしれない、と思うのです。

倫理から自分に出会う

さて倫理の問いは、「人はどうあるべきか、どう生きるのが善いか・正しいか・幸せか」という問いに尽きます。それが深く持続的に問われ、そして何かの形でそれに対する解答が試みられたとき、そこに倫理のテキストが生まれています。例えば近年では、1997年の神戸連続児童殺傷事件という不幸な事件~いわゆるサカキバラ事件~をめぐって、すぐれたテキストが様々に生み出されました。

そういったテキストに対し、今の自分にしかできないような徹底的に読み抜くような読み方を試みることが、倫理研究の最も主要な営みになります。そしてそれがいくらかでもできたときに、たぶん私達は、そのときの自分自身が抱えている倫理というものに、別の言い方をすれば、自分というある意味では不可解なこのものに、一瞬かもしれませんしごく部分的にかもしれませんが、出会えているのだろうと思います。